2009年09月11日

忘れ去られた“菊芋”

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       菊芋は、日本国中いたる所にに自生し、山菜の様になって野生化してあまり顧みられなくなっています。田舎の畦道や土手などに2メートル位伸び、先端に大きい黄色い菊の花の様な大きい花を咲かせる勢いの良い植物です。

菊芋が、日本に、入ってきた歴史は、意外に浅くほんの60年前のことです。終戦直後、食糧難の時代アメリカの進駐軍とともに、「飢え」をしのぐための「飢餓対策特別農産物」として学校給食の脱脂粉乳や配給でお馴染みのレーズンや乾燥アンズ等のララ物資やケア物資と共に日本に持ち込まれた食物です。ララ物資と言えば、高齢者にとって懐かしくも甘美な響きを持つ言葉である。紙で作ったドラム缶に入った脱脂粉乳、レーズン、干あんず、干リンゴ、干人参、ポークチップ、チーズ、バター、グリンピース、トマトジュース、パイ缶、コンビーフ、小麦粉、トウモロコシ粉、缶詰などの食料である。全国どの地方の人と話しても大体同じ様なものを配給で受けている。ララ物資の総量は21万トンだという。21万トンを北は北海道から南は九州までほとんど平等に分かちあえたのは、見事としか言えない。それから考えると北朝鮮に50万トン供与し100万トン供与しても立ち上がれないのはどうしたことだろう、この国家とは何なのかと疑問を感ぜざるをえない。我々は、今も、いまでも事ある毎にララ物資に感謝の念をいだく。ララ物資の贈呈をもって学校給食も始まった。

だが、ララ物資は、進駐軍がくれた物ではない。ララ物資は、後に「ララ物資の父」と称せられる盛岡出身の日系米人でジャーナリストの浅野七之助の渾身の努力の賜物である。浅野のロッキー日報に書いた「故国の食料危機重大」という記事に呼応して立ち上がってくれた、アメリカの良心、クエイカー教徒の助力によるものである。そんな時期に、菊芋は日本に入ってきた。本来は、北米大陸に自生するアメリカインデアンの食料でした。菊芋は、芋といっても、イモの仲間ではなく、モリアザミや山ごぼうの一種なのでサクッとした食感で山ごぼうの味で日本人に合う食べ物です。地方によっては、カライモとか八升芋とか言います。デンプン質が少ないため、「栄養,栄養」と言った時代には、食べてもムダといって忘れ去られた。

しかし、菊芋には、イヌリンという血糖値を正常に保ったり、糖質が脂肪に変わるのを防いでくれる成分や菊芋ポリフエノール、ビタミンやミネラルや酵素等のほんの少しだけでも体の役に立つ微量栄養素と言われる成分を沢山含んでいる事が、分子栄養学で明らかにされてきています。そう言えば、西部劇を見てもデブのアパッチやシャイアンやチェロキーは、お目にかかれない、皆筋肉質で精悍な顔立ちをしている。デブのジェロニモでは、絵にならない。「飽食の時代」と言われる現代、「飢え」を救った菊芋が、再び「飽食」によって引き起こされる肥満、糖尿病、高血圧などを救う事になるとは驚きです

東北地方、特に青森では、菊芋を食べる習慣が、そのまま残り今でも油炒めにしたり、漬物にしたり、今でも食べ続けられています。専門家によると、イヌリンは、熱に弱く、熱をかけると、壊れてしまうと言うことなので漬物として食べるのが一番良い方法ということです昔、田舎では、「糖尿病は、村に2人  村長と三等郵便局長だけ」と言われたものである。「贅沢のバチ」とは、まさに至言である。菊芋に含まれているイヌリンは、インシュリンとほとんど同じ様な働きをする成分なので、すい臓を休ませてくれます。また、イヌリンは糖質が中性脂肪に変わるのを防いで、肥満になりにくくします。イヌリンは腸内のビフィズス菌を活性化し腸内をキレイにしてくれるので便秘を解消します。 菊芋は、糖尿病・高血圧・コレステロール・肥満・中性脂肪・便秘などの食事改善に効果があるといわれております。菊芋は、天然自然の恵みといえます。今一度、「食を科学」して忘れられた食材を、食事の一部に取入れてみてはいかがだろうか。

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2009年06月09日

巣鴨界隈の風景

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巣鴨の“とげぬき地蔵尊”の境内には、古くから続いている露店が、軒をなして並んでいる。まあ“とげぬき地蔵尊”のぐるりを囲む藩屏のようなものである。門前町などは、露店なしでは丸裸みたいなものだ。あります、あります、つぎからつぎに露店が並んでいる。唐辛子屋、根付屋、梅干屋、腰紐屋、古着呉服屋、ぼろ屋、植木屋、綿飴屋、ヤキソバ屋、太鼓焼き屋、暦屋、お好み焼き屋、味噌漬屋、カツラ屋、迷子札屋、馬木の耳掻屋、焼だんご屋、地蔵屋、ヨーヨー屋、家相観屋、おみくじ屋、削り節屋、パンツ屋、つぼばん屋、ペタップ屋、珍味屋、易者、左馬の茶碗屋、健康器具屋、風船屋、焼だんご屋、サンガ屋、お香屋、まむし屋、ラオ屋、占い師などなどのお店が連なっている。昭和30年代の田舎の祭の縁日の風景そのものである。「3丁目の夕日」とかいう映画が人気だそうだが映画そのものの雰囲気がそのまま残っている日本でも数少ない町の一つだろう。

境内には焼き団子の醤油の焼ける香ばしい匂いが漂っている。昔あって、いま巣鴨にないのはカーバイトの“アセチレン・ランプ”の匂いくらいなものだ。参拝客は、それぞれ馴染みの店の前で話込んでいる。その光景は、まるで砂漠から久しぶりに、オアシスに出てきた砂漠の民のようである。人が恋しいのだ。久しぶりに人と話した、と言うお年寄りさえいる。人と会話ができるだけでも御利益のうちなのだろう。だが、参拝に来る年寄りすべてが善男善女とばかりは言えない、たまには“年寄りの不良”も来る。けっこう“年寄りの不良”というのもいるものだ。

お年寄りで偽悪ぶる“不良”もなにか可愛げがある。いまだに若手の“傷痍軍人”などがアコーディオンとハーモニカで「ここは御国の何百里・・・」とか「モンテンルパ・・」などの歌を奏でている。南方戦線に出征した00師団00兵団で名誉の負傷をしたという話をきいて「ウソと分かっていても身につまされてお金を入れてしまいたくなる」と言うお年寄りもいる。こんなところは、全国広しといえども巣鴨くらいのものだろう。

巣鴨のとげぬき地蔵尊の縁日は毎月4日、14日、24日である。まあ、見事なほどの露店の数である。“美は乱調にあり”とも言われるが、とりすましたデパートなどと異なり乱雑、喧騒、ゴチャゴチャさかげんがなかなか良いと人気である。そこんなところが、この町の魅力なのだろう。

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2009年02月02日

巣鴨に残る“食事訓”

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あるお年寄から、「ところで、あの食事訓は、いったいどうなったんでしょうね、まだ覚えていますか?」と聞かれた。
久しぶりに“食事訓”という言葉を聞いた。
知っているもなにも、いまでも食事のたびに口には出さながよく心の中で唱えている。たぶん、年配者のほとんどの人がいまだに記憶していることだと思う。
巣鴨にお参りに来られるいろいろな人達に聞いたところ“食事訓”を知っている年令の分岐点は、70才といったところだった。
かつては、“いただきます”をいう前に祖父母や父母の口まねで“食事訓”を唱えた。「箸とらば 天地御代(あめつちみよ)の御恵み(おんめぐみ) 父母や衆生(しゅじょう)の ご恩味わい」というものである。
地方によっては、いくぶん言い方や言い回しが異なるようであるが、その意味するところはまったく同じである。

ところが70才以下の人達がこれを知らないのは“食事訓”も“いただきます”も宗教的であり、上下の支配関係を示すものだ、ということで、いわゆる“進歩的教師”たちが学校で子供たちに禁じたことによる。
子供は、家に帰り学校で教わったとうり、「食事訓は悪いことだ」という。私もそのように言った覚えがある。今考えると、子供を人質に取ったこの“食事訓”つぶしは“国旗”や“君が代”をつぶしたと同じように大成功に終わった。
だが、さすがに“いただきます”は、つぶしそこねたようだ。しかし“食事訓”は、いまでは確実に跡形もなく消えてしまったといういうわけである。

当然、現在4050才の世代の人達に我々は伝えそびれてしまった。まして、20歳以下の孫の世代などは、これを知るよしもない。

外国映画を見ると食事の前にあたりまえのように神に祈りを捧げる。それが、あたりまえで自然な光景である。とくに宗教的というほどのものでもあるまい。若者の中には、よく自分は無宗教だ、と平気でいう者もいるが、そんなことは決してない。自分で気つ”かないだけである。
元旦には、鎮守の森の氏神様にお参りする。家の玄関先には、ご先祖が集う“依り代”の門松と注連縄を飾り、御供をそなえる。
いまでも町工場では、動く一つ一つの機械に御供えをそなえるという。大手の会社でも工業用ロボットにさえお供えを供えると聞く。マイカーにお飾りを付け、高尾山で安全祈願をする。子供でさえ自分“シマノ”のハイテク自転車にお飾りを付け正月を迎えるほどである。春には、田の神様に五穀豊饒を祈り、早乙女が田植えをする。
山開き、海開きまた然り。地鎮祭のない建築工事はない。科学の最先端の原子力発電所の建設でさえ地鎮祭を行う。このあいだ打ち上げに成功したロケットの場合どうだっただろう。何もせずに、宇宙の大空の大自然に向かって打ち上げるほど傲慢不遜ではあるまい。
鯨塚を造り、針供養をする。田舎に行くと、よく見晴らしの良い南斜面に馬頭観音がある。古老の話によると、天明の飢饉の時不本意ながら先祖が食べた償いだという。
熊を狩るマタギは、熊が遡上するサケを沢山食べられる様に、上顎と下顎を川の両岸に供えるそうだ。宗教律とか道徳律が生活と渾然一体となり、伝統 文化 習慣 風習 風俗の形を取っているから実感がないのかも知れない。

名著“日本人とユダヤ人”の著者イザヤ・ベンダサンこと山本七平が著書の中でこんな面白い逸話を紹介している。
エジプトで発掘調査をしていた日本人十数名が、来る日も来る日も白骨ばかり出るので一人また一人と倒れる。カイロの病院で調べるが、全員異常は、認められない。そこで、急遽日本から神主を呼び、お祓をしてもらったところ全員ケロリと完治したという。
その調査隊は、全員キリスト教徒ということである。これは日本人の宗教観をとても良く表わした逸話であるとおもう。

巣鴨の“とげぬき地蔵尊”がにぎわっているのも単純にして明快に心に積もる“心のトゲ”を抜いてくれるからである。これで救われている人が、数多くいる。“これでホットした”と言う人が沢山いる。

食事訓が、いまさらどうなると言うものでもないだろうが、むかし“食事訓”という習俗というか美俗というか、そんなものが有ったことをご記憶いただきたい。

「箸とらば天地御代の 御恵み 父母や衆生のご恩味わい」
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2008年07月25日

巣鴨では65,6は鼻タレ小僧 女盛りは7,80 

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巣鴨は、とげぬき地藏尊で知られる高岩寺の、いわゆる門前町である。 “お年寄りの原宿”とも呼ばれ、毎月4・14・24日の縁日は、沢山のお年寄りがお参りに集まる。 お伊勢参りや善光寺参りが、女性のレジャーであった事と同じようなものです。 巣鴨の魅力は、何かというと、なんと言っても“よそ行き”を着なくても普段着のまま出かけられるということでしょう。“ちょっと そこまで”の装いで出かけられる、そんな町です。 商店には、今なら“ムームー”と言うのだろうが、昔は「簡単服」とか「アッパッパー」といった洋服やモンペとスラックスのアイノコの“モンスラー”という巣鴨独特のズボンもある。

今は亡き勝新太郎の若かりし頃の写真や、眠狂四郎の市川雷蔵、紅孔雀の中村錦之助、東千代ノ介の白黒の懐かしいプロマイドが店頭を飾っている店もある。そんなセピア色の思い出が沢山のこっている町です。 さらに、「言葉の訛は、お国の手形」とお国訛りが、大手を振ってまかり通る大きな田舎町だと言うこともいえます。 「ノーテンファイラー」(馬鹿)という、いまでは化石のような言葉が“ノテ”という言葉で残り、それが今なお通用する。「後生楽」という言葉も生きている「言葉の依代」の町でもある。 たぶん昭和30年代の面影を残した町の雰囲気が、人を引き付けるのでしょう。

近頃、レトロな町並みがブームのように好んで作られているが、仏造って魂入れずの感を免れな
い。 巣鴨の町の雰囲気には、お地蔵さんを取り囲んでいる、昔からテキヤ、香具師(ヤシ)と呼ばれ、江戸300年の伝統を今に伝える露天商の存在は、欠く事ができない。 いまだに、サービス品を“御渡品”(オントヒン)と言う“お祭屋集団”の存在は大きい。 かつて、仙台で露天商を排除し、東京では、渋谷で露天商を排除し町の性格と面白味を失ったという。地方出身者、早い話、田舎者にとって露店は地方の町々に、江戸弁のキレイな口上で都会の庶民文化をカーバイトの匂いとともに伝えてくれた懐かしい存在である。日光写真、海ほうずき、地球ゴマ、ベーゴマ、でんすけ、水貼り絵、綿飴、チンドン屋など思い出深い。

この頃テレビでは、世の識者という輩が、したり顔で高齢化社会を、嘆くが、どうしてどうして年寄りとて実際には、なかなか達者なものである。 この頃、「私って、100歳は楽にいけそう」と言う言葉を良く聞くようになつた。 人生125歳説が、現実味を帯びて感じられる。 私は、今年67才になりますが、この町では、いまだに「お兄ちゃん」とすら呼ばれることが多い。まことに有難い町である。他所では、なかなか、こうはいかない。 「六十四、五は鼻タレ小僧 女盛りは七、八十」といったところである。

毎年の初詣で、明治神宮に400万人以上の人々がお参りしている。 その理由は、八万とも言われる全国の鎮守の森と十万以上の里山の樹木と土石を持ち寄って作られた“日本の鎮守の森”だからである。 だから米穀通帳と外食券を持って上京した地方出身の者達は、故郷に帰省できない時には、故郷の香りを求めて神宮の森に集うのである。 その数が、400万である。どこの田舎にも、故郷の鎮守の森から明治神宮の森に樹木を運んだ言い伝えが、必ず残っているはずである。 それと同じように、巣鴨は人と人とが、大きな里山を成し、お国訛りの「言の葉」の幸はう町である。

先日、年寄り仲間で方言の話に及び「気象衛星「アメダス」で話が弾んだ。 「アメデス」「アメダス」「アメデッセ」  「アメドス」「アメダベ」「アメダッペ」 「アメダラ」「アメダニ」「アメダッチャ」 「アメバイ」「アメダガ」「アメダンベ」と・・・・・さて、あなたの町では、なんと言うのでしょうか。


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映画“南京の真実”と“愛国の花”

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先日、文京シビックセンターで水島総監督作品の映画「南京の真実」・第一部“七人の死刑囚”の試写会を観賞する機会にめぐまれた。当日、桜井よしこ氏、三宅久義氏ご夫妻も来場されていた。

この映画は三部作になる予定であるという。その三部作の第一弾として極東軍事裁判において“平和に対する罪”という事後法によって死刑になった“七人の死刑囚”が絞首刑になるまでの模様が花山信勝教誨師との会話をとうして克明にえがかれている。

映画は日本の敗戦が色濃くなった昭和20年3月10日の東京大空襲の実写映像からはじまる。この夜、一夜にして十万人の東京都民が無差別爆撃で亡くなった。さらに八月6日には広島、八月9日には長崎への原爆投下により30万人の市民が亡くなる。

これをおおい隠すように、極東軍事裁判において突然に南京において大虐殺があったと告発されたのである。これが“南京大虐殺”という虚構の始まりである。日本が南京を陥落させたのは、日米両国が干戈をまじえる四年も前の出来事である。

“事件”があったという昭和12年から昭和20年の終戦にいたるまで、中華民国政府も中国共産党も、欧米政府も、まったく取り上げなかった“事件”であったのである。

しかし、極東軍事裁判において南京攻略戦の軍司令官だった松井石根大将は、その戦争責任を問われ絞首刑となった。

「南京の真実」第一部“七人の死刑囚”は、この大将松井石根軍司令官を主人公として当時の実写フィルムを交えて構成されており、これらの映像が書籍からはうかがい知る事の出来ないような事実関係を如実に物語っている。この映像は、日本国民のみならず、世界中の人々にもぜひ見てもらいたいものである。

南京陥落の翌日昭和12年12月14日には、早くも記録映画撮影隊や日本および各国記者団が南京に入っている。そしてその翌日である15日からお正月にかけて撮影隊は、南京城内の様子をくまなく撮影している。すべて広角レンズで隠し立てなく撮影されたその模様は、いたって平穏そのものである。

しかしアイリス・チャンや南京大虐殺を既成事実化しようと躍起になっている中国政府は「三十万人虐殺、八万人強姦」説をいまだに言いつのっている。

南京陥落の直前の人口は二十万人だと国際委員会はいっているが、それが南京陥落の一ヵ月後には二十五万人に人口が増えているということである。このことは南京の治安がよかったという証左ともいえる。

当時撮影されたフィルムの中でも良民証という身分証明書を貰うために長蛇の列をなしている穏やかな表情の中国人が写し出されている。それを四人ずつ並ばせて整理している日本兵は全員兵器を一切もたずに丸腰で警備にあたっている。
松井石根大将は南京陥落の直後に奈良38連隊・津32連隊の二個連隊から4000名の兵だけを南京の警備に残してその他の部隊は他の戦場に転進させているのである。

警備に残った4000名の兵で25万を警備していたことになる。その兵がその後年末年始にかけての数週間で三十万人を虐殺し八万人の女性をレイプできるものであろうか。とうてい考えられない所業と言わねばならない。

南京城内の映像には年末でお正月の準備をする部隊の様子が映し出されている。また日本の従軍看護婦が傷病兵を看護する姿や兵とともに記念撮影をしている穏やかな場面も映し出されている。

さらに、蒋介石政府は、南京陥落の後の十ヶ月の間に、毎日のように外国人記者会見をし、その数三百回もあったという。しかし、「南京で何がおきたか」という事に関しては一切言及していないのである。

このような内容をナレーションによらず、字幕だけで訴えかけていた。映像の力と文字の力が相まって強烈なインパクトがあった。
私もいままで書籍の上で“南京”について読んで知っていたつもりであったが“百聞は一見に如かず”とはまさにこのことである。あの記録映像を見て“南京の真実”を正しく理解することができた。

この映画“南京の真実”の圧巻は被告側アメリカ人弁護士ブレークニーが東京極東裁判の無効と被告達の無罪を主張する実写場面である。
「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪ならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げることが出来る。投下を計画した参謀長の名前も承知している。その国の元首の名前も承知している。・・・この裁判はその人たちが裁いているのだ」と。(映画南京の真実より引用)

映画の最後に渡辺はま子の“愛国の花”が突然流れ出した。渡辺はま子が歌うこの歌を聴いたのは本当に久しぶりである。私にとってこの歌は、子供のころ毎日聴いていた懐かしい歌でもある。

終戦間際のころ、私の家の前にある洋裁学校の生徒たちが昼休みに毎日歌っていた。なぜか毎日おなじように三曲歌っていたことを覚えている。はじめに従軍看護婦の歌である“従軍婦人歌”、つぎに“蘇州夜曲”、最後に“愛国の花”が歌われていた。彼女達の声が子供心にも天使の歌声におもえたものである。

ところが、このすばらしい歌が毎年年末の恒例になっている“懐かしのメロディー”に登場しないのだ。長い間、この事を疑問におもっていたのだが、櫻井よしこ氏の著書を読んで合点がいった。

この歌は終戦直後、一時、NHKのテーマミュージックになっていたという、そして当時GHQでも非常に良い曲だということで何の問題もなかったということである。しかし、この曲は戦時歌謡だとGHQに“御注進”した者がいたという、いわゆる“チクリ”である。そのため、その後この曲が封鎖されつつ”けたのだということだ。

江藤淳がいうところの「閉ざされた言語空間」が歌にまで及んで今日まで続いていたとは驚きである。

ついでながら“愛国の花”の歌詞を書き添えます。いちど口ずさんでみてはいかがでしょうか。

1

真白き富士の けだかさを  こころの強い 楯(たて)として

御国につくす 女等(おみなら)は  かがやく御代の 山さくら

地に咲き匂う  国の花

2

老いたる若き もろともに  国難しのぐ 冬の梅


63年前、こんなメロディーで愛国の花を歌っていました。
“愛国の花”のメロディー


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八月十五日の“手紙”

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今年の終戦記念日も例年どうりの晴天であった。過去62年間、どういうものか曇りにあたった記憶がない。抜けるような青空と真黄色な向日葵と蝉時雨が自分にとっての八月十五日の記憶である。あの日とまったく同じ天気でおんなじ風景である。おなじ青空でも八月十五日の青空は妙にもの悲しく感じられてならない。今日、時あたかもお盆の真っ只中である。

今年の終戦記念日にむけて、産経新聞では8月1日から15日まで大戦末期に生還できないことをわかって出撃した兵士が、家族にあてた“最後の手紙”(遺書)を紹介していた。この15通の手紙は靖国神社の社頭に月替わりで掲示されたものだ、という。この“手紙”をぜひ多くの人にも読んでもらいたいとおもって引用したいとおもう。
かつて、名コラムニストの山本夏彦氏は「人間は二度死ぬ、一度目は普通に言うところ死である。だが人間はそれだけでは死なない。人の記憶のなかで生きつつ”ける。ほんとうの死とは人の記憶から消えたときである」という。せめて終戦記念日の“八月十五日”だけでも静かに御魂を祭ってあげたいものである。

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                   最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  海軍兵曹長  近藤八郎 命(みこと)
  第66警備隊 昭和19年2月6日 マーシャル群島クェゼリン島にて戦死
  長崎県出身  27歳

短期間の実に楽しい結婚生活であった。厚く御礼を申す。俺も此の度は生還は帰し難し。武人の妻として誇りを持ち絶対に取乱してならぬ。七転八起の精神を振ひ起し、世の荒波を乗切る様。くどい事は申さぬ。幾時も申していた言の葉を思い起こし、老先短き両親に仕える様。尚坊やの顔も見たいけど致方ない。清く美しく育てて呉れ。男子の場合は姓名近藤征一郎。女子の場合は姓名近藤洋子と命名して呉れ。暑さ寒さに留意され自愛専一に。二十二日夜認ム 
                                      敬具
                       夫より    マスエ殿 
       (靖国神社・平成十八年四月社頭掲示)
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                   最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  陸軍中佐  沼田正春 命(みこと)
  昭和19年12月2日 レイテ島リモン西南方面にて戦死
  神奈川県出身  31歳

大命に依り、父は沢山の将兵をお預かりして、更に更に難しい戦場に赴く事となった。故に多忙中であるが一言申し述べて置く。 
若し父亡くしても、節夫には立派な祖父母があり優しい母がある。お世話下さる叔父や叔母がある。又幾百年来の先祖がお前の事を一生懸命見ていて下さるのだ。それ故、皆に有難く感謝しつつ安心して征くのである。祖父母や母の教えに従がい清く正しく如何なる事にも負けぬ強さ優しさを持って育てよ。
父の骨は遥か南の果てに埋まるとも、常に常に、お前が成育する勇姿を見守っている。秋色濃き孫呉の平原に虫声も寂しく、北斗星は真上に輝き、月は興安嶺の彼方に傾く。冷気強き灯火に下、遥かにお前の姿が目に浮ぶ。どうか祖父母を大切に母を労わるよう。他の事は祖父母様お母さんよりお聞きなさい。

         (靖国神社・平成十七年八月社頭掲示)
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                   最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  陸軍中尉  山下 瀞 命(みこと)
  昭和19年12月7日 サイパン島にて戦死
  静岡県出身  23歳

  父上母上様 

瀞は幸者でした 喜んで笑って行きました 最大の親孝行も致しました 安心して行きました
専門教育迄受けさせて戴き我儘をやって来ました
故郷の山河、浜名の湖水に、遠州灘に、瀞の魂は幸福に寝っています。
姉様楽しき日を御祝致します
満雄、後は頼んだぞ 士郎、俺の分まで孝行してくれ 益雄、しっかり勉強して偉い人になれよ 多可士、御母様の手伝をしなさいよ 悟朗よ、益雄、多可士の面倒を見てやれよ
瀞様は皆を何時もあの青空で見ていますよ

     一億の人に一億の母あれど  吾が母に優れる母あらめやも
御母様古賀幸子様に宜しく御伝へ下さい
                        では さやうなら

       (靖国神社・平成十九年一月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                                                                          最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  海軍小佐  久保田 長 命(みこと)
  特設潜水母艦靖国丸
  昭和19年1月31日 トラック諸島西洋上にて戦死
  茨木県出身  45歳

応召以来満一ヵ年ではあるが、及ばず乍ら日ごろの体験と努力とによって、思う存分忠勤を尽くして来たと確信する。
                   (中略)
靖国丸の航海長として応召し、靖国丸と共に働き、死して靖国神社に祀られる。これ以上の名誉があらうか。
一生を契って十幾年、随分苦労も多かったらう。然し満足に生育して行く子等に就いては些かの心配もない。我が亡きあとは定めし骨も折れる事だらうがよろしく頼む。我れ戦死すと雖も霊は常に御身を守っている。
決して悲しんでくれるな、むしろ喜んでくれ。
                               さらば
              昭和16年12月6日  長 出
  
  淨子様
               (最後の日迄開封すべからず)

       (靖国神社・平成十八年二月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                            最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
  海軍工作兵曹長  小笠原嘉明 命(みこと)
  戦艦大和乗艦
  昭和20年4月7日 九州坊ノ岬南方沖合にて戦死
  愛知県出身  29歳

我、軍人としての本分を立派に果たし、神風大和艦上に最後を飾るは、我、無上の上誉れと深く心に銘記し笑って死すものなり。 
御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。夫婦の契りを立て、二世を誓いし以上は、我と一心同体なりし事は申すまでもないと存じまする。ましてや我は国難に殉じる軍人です。其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、此に一言遺書を記すものなり。                 (中略)
一、里へ帰るも可なれど、里方御迷惑せられますれば、我家にいては居辛く本人としては我家を出て静かに自活したき希望なれば、本人の希望通りに自力自活の道を進む様御願ひ申し上げます。其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置いて戴きたく御願ひ申し上げます。
一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、可愛がれば愛子とても孝養せなくてはならなくなると我は存じますれば、嫁と思はず、我子と思われまして可愛がって下さいます様御願ひ申し上げます。(後略)
         (靖国神社・平成十九年三月社頭掲示)
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                                                             最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
  海軍工作兵曹長  小笠原嘉明 命(みこと)
  戦艦大和乗艦
  昭和20年4月7日 九州坊ノ岬南方沖合にて戦死
  愛知県出身  29歳

我、軍人としての本分を立派に果たし、神風大和艦上に最後を飾るは、我、無上の上誉れと深く心に銘記し笑って死すものなり。 
御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。夫婦の契りを立て、二世を誓いし以上は、我と一心同体なりし事は申すまでもないと存じまする。ましてや我は国難に殉じる軍人です。其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、此に一言遺書を記すものなり。                 (中略)
一、里へ帰るも可なれど、里方御迷惑せられますれば、我家にいては居辛く本人としては我家を出て静かに自活したき希望なれば、本人の希望通りに自力自活の道を進む様御願ひ申し上げます。其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置いて戴きたく御願ひ申し上げます。
一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、可愛がれば愛子とても孝養せなくてはならなくなると我は存じますれば、嫁と思はず、我子と思われまして可愛がって下さいます様御願ひ申し上げます。(後略)
         (靖国神社・平成十九年三月社頭掲示)
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                                                             最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
  海軍少尉 服部壽宗 命(みこと)
  神風特別攻撃隊「菊水部隊天櫻隊」
  昭和20年4月16日 南方諸島方面にて戦死
  三重県出身  

  節子殿 

兄は神風特別攻撃隊の一員として明日敵艦と共に、我が愛機電撃機天山に特攻用爆弾を抱きて命中、男一匹玉と砕け散るのだ、最後にのぞみ一筆書遺し置くことあり。
          節子も今では立派な可愛い女学生となったことであろう。兄は節子の女学生姿が見られずに死んで行くのが残念だ。兄の一人ぐらいが死んだとて何も悲しみなげく事はない。      
兄は喜んで天皇陛下の為め、重大危機に直面して居る日本の為め、一億国民の盾となって散って行くのだ。少しも悲しまずに笑って兄の魂を迎えて呉れ。(中略)兄は常に九段の社の櫻の木の枝に咲いている。裏の元屋敷の櫻の木にも咲きますよ。櫻が咲いたら兄だと思って見て下さい。
             さやうなら。母上を御願ひ致します。
                                 出撃前夜 兄
                                 親愛なる妹 節子殿            (靖国神社・平成十五年四月社頭掲示)
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                 最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
   海軍少佐  篠崎真一 命(みこと)
   昭和19年6月29日 内南洋方面にて戦死
   東京都出身  二十四歳 

  玲子
玲子は日本一、否世界一の妻なりと思っている。苦労のみかけ、厄介ばかりかけ、何等尽くし得なかった事済まなく思っている。 
四月十五日以来僅かな月日であったが、私の一生の半分に値する月日であった。父母に孝養を尽くしてくれ、私の分迄。
私に逢い度ば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きている。
結婚のすべての手続き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を頼むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。
後顧の憂、一つなく征ける身の幸せを感謝している。最愛の玲子、御身を常に見守っているよ。
                                出撃前夜
                                  海軍大尉 篠崎真一
         (靖国神社・平成十八年三月社頭掲示)
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                最後の手紙 
            千の風になった御霊(みたま)たち
   海軍大尉  林 市造 命(みこと)
   昭和20年4月12日 西南諸島方面にて戦死 
   福岡県出身  23歳 京都帝国大学 海軍第十四期飛行科予備学生
                             
一足さきに天国に参ります。
天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈ってください。お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。お母さん、さようなら。

・・・・・ 母マツエさんの手記・・・・
泰平の世なら 市造は、嫁や子供があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていたときに 生まれ合わせたのが運命です。
日本に生まれた以上、その母国が、危うくなった時、腕をこまねいて、見ていることはできません。そのときは、やはり出られる者が出て防がねばなりません。

            一億の人を救ふはこの道と
                   母をもおきて君は征きけり
           (靖国神社・平成十四年六月社頭掲示)
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                  最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                               陸軍衛生少尉     谷口 吉元 命(みこと)
       昭和20年2月27日 フィリピン群島ルソン島クラーク方面にて戦死
   三重県出身  二十九歳

いよいよ 動員下令になった 明日又は明後日は出発する事と思う 男子の本懐之に過ぎるものはない 勇躍して征途に着く 目的地は日米の決戦場「レイテ」島であろうと予想せられる お前の最後の手紙を今日手にした女々しいかもしれぬが持参して行く 恵まれぬ夫婦生活だったね しかしくれぐれも体を大切にして父母上の事を宜しく頼む 又子供の養育を御願ひする
私は今お前の強い 意志を信じて心置きなく大命の下 決戦場に身を挺する事が出来る 運命は神が支配せらる 私の肉体は何処に在ろうとも 心は必ずお前達母子三人の上に永遠の幸福を祈りてあるぞ(中略)
くれぐれも御自愛を祈る
                久子殿
                                  吉元
                                                   (靖国神社・平成十六年十一月社頭掲示)
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                  最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                               陸軍大尉     横山 善次 命(みこと)
   昭和20年8月13日 犬吠埼東方洋上にて戦死
   茨木県出身  二十二歳
私は突然征く事になりました。何も言ひ残す事は有りません。只戦が勝つまで頑張って下さい。充分健康に注意して・・・。
私は必ず立派に目的を達成します。私が今頃只本当に御両親様に御世話になり、又数々の御心配をおかけした事は御許し下さい。今迄御両親には何とかして安らかな生活をさせたいと思って居りました。それも出来ませんでした。愚人の空想でした。
ホンノ少しでは有りますが、このトランクに入って居る品、私が一生懸命にためたものです。食べたかったのを食べずにためました。
大きな箱の中に入って居る清酒其の他の品は、七月三十日、出撃準備命令と同時に出撃者のみ頂いたものです。生缶等皆様と一緒に食べたかったのですが、それもできませんでした。本当につまらぬものばかりですが、これが私の最初で最後の心からの品です。箱の中の品は私の写真と一緒に食べて下さい(中略)。
では皆様、充分健康に注意され、最後まで頑張って下さい。私は立派にやります。
さやうなら
              (靖国神社・平成十五年八月社頭掲示)


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             千の風になった御霊(みたま)たち
   陸軍大尉 川合四郎 命(みこと)
   昭和20年6月16日 沖縄にて戦死
   東京都出身  36歳
お手紙ありがたう。東京も梅雨がもう少しであけるさうですが、防空壕の中に水がたまってさぞ困るでせう。防空壕の上の木にもやがて蝉がみんみん鳴くことでせう。
こうして手紙をかきながら眼をつぶりますと、そのときの光景は見へるやうです。もう今頃は一学期も終わりに近つ”いて水泳のできる頃になりましたが、お父さんが居れば多摩川へでも行って泳ぎを教へてあげるのですが、満州にいてはそれもできず残念ですね。 
お手紙を見ていますと文章は短いですが、誤った字もなく仲仲よくかけています。毎日どんなにしているかよく分かります。その調子で良く勉強するんですよ。 (中略) 
昔の武士の子供は腹がすいても「ひもじい」と言っては親からしかられたものです。では今日はこれで終わり。 
                                さようなら 
   お父さんより      雄二郎君 
                                                                                                   (靖国神社・平成十五年八月社頭掲示)
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             千の風になった御霊(みたま)たち

    陸軍大尉  枝 幹二 命(みこと)
    昭和二十年六月六日 沖縄方面にて戦死
    富山県出身  二十三歳

六月六日
あんまり緑が美しい 今日これから死に行くことすら忘れてしまいさうだ  真青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲 六月のチランはもうセミの声がして夏を思はせる
   “小鳥の声がたのしそう 俺もこんどは小鳥になるよ”
日のあたる草の上にねころんで杉本がこんなことを云っている笑わせるな
本日十四、五五分
いよいよ知ランを離陸するなつかしの祖国よ さらば
使ひなれた万年筆を“かたみ”に送ります。
             (靖国神社・平成十五年六月社頭掲示)
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               最後の手紙
             千の風になった御霊(みたま)たち

  海軍上等主計兵曹  白井 武男 命(みこと)
  軍艦摩耶乗員    昭和17年11月14日 ソロモン諸島方面にて戦死
  茨木県出身     21歳

(前略)
かわいい弟達、我が家には我が家のハッキリした精神がある。何年か後は貴殿等も軍人に成るはずなり。それまでは一心不乱あの精神守り通すべし。
  (中略)
軍人としては戦場に臨むからは万一の場合を予期せねば成らん。されど幸いにして永らえる者は必ず白井家の意思をガッチリと後世に申し送るべし。父母の孝養にいそしむべし。父母の心安んずる事が子としての最大の孝行なる。困しさも難しい所を笑って切りぬけるべし。己を困難は練磨してくれる。御互に口をつつしむべし。口はわざわいの素なり。一家の秘は決して外言するべからず。功をほこらず。死を悲しまず、武人の家人らしくすべし。涙は絶対禁物なり。泣くは子供の時なり。泣く分笑ふ事が第一なり。絶対軍人の家人らしく態度を保持すべし。
              (靖国神社・平成十八年四月社頭掲示)

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             千の風になった御霊(みたま)たち

  陸軍中佐  伍井 芳夫 命(みこと)
  特別攻撃隊第二十三振武隊 昭和20年4月1日 沖縄慶良間海上にて戦死
  埼玉県出身  32歳

親愛ナル真智子智子ヨ オ父サンハ 大東亜戦争ノ勝利ノ為 昭和二十年ノ春 特別攻撃隊第二十三振武隊隊長トシテ 日本男子ノ最大ニノ誉ヲ得テ立派ナ戦果ノ下ニ散リマス 
オ父サンハ 姿コソ見エナイケレド 護国ノ霊トナッテ 何時マデモ何時マデモ生キテ居リマス
真智子モ智子モオ母サンノ謂ヒ付ヲ守ツテ立派ナ人トナリナサイ 弟ノ芳則ヲ援ケテ軍人ノ遺族トシテ立派ニ成人シテ下サイ オ母サンハ オ前達ノ養育ノ為 言葉ニ云ヒ表セナイ非常ナ苦労ヲシテ来タノデス 大キクナツタラ此ノ御恩ヲ忘レズ必ズ孝行シテオ母サンヲ楽ニシテ差上ゲナケレバイケマセン 
オ父サン オ前達ノ成長ヲ見守ツテオリマス 良ク勉強シテ立派ナ人トナリナサイ 病気ニナラナイ様体を丈夫ニナサイ
            真智子智子殿      父ヨリ
                                                                                                 (靖国神社・平成十五年五月社頭掲示)
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                                                              最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

    海軍大佐  堀内 豊秋 命(みこと)
    昭和二十三年九月二十五日 セレベス島メナドにて法務死
    熊本県出身  

(前略)
人がなんと言っても恥ずかしいことはありません。皆母様の教えを守り良く勉強をし、立派な人になってください。日本を救う道は立派な人間になること、よく学問して、偉くなることです。体は若いうちに作らねば後で後悔します。監房の生活は少しも苦しくないからお父様のことは全く心配いりません。お父様に対する孝行は、ただ勉強して立派な人になることです。特に一人息子の一坊は一家の柱です。呑気すぎてはなりません。それでこせこせしたり、卑しくなってもいけません。(中略)
くれぐれも心配するな母ちゃん。少しでも仕事があるようなら知らしてくれ。筍生活には限りがある。小生の帰り何時か解らん。健康に特に気をつけ無理するな。
神の正しい裁きを待つばかり。
                         下壽殿 一坊外子供達一同殿
             (靖国神社・平成十五年五月社頭掲示)
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チンチン電車の通る町 “巣鴨”

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巣鴨は、今では最後の路線になってしまった懐かしの都電“チンチン”電車が通る町である。往時の最盛期には都内を42路線で縦横無尽に走りまわった都電も、時の流れかこの都電荒川線を残すのみだ。早稲田から三ノ輪橋までの12Kmの距離を約1時間で結んでいる。早稲田から神田川沿いに思案橋 鬼子母神 学習院下 大塚 飛鳥山 王子 荒川遊園 町屋 三ノ輪橋 と続く。東京の繁華街を避け路地裏を走る姿は、丁度、昭和30年から昭和40年の趣がある。この路線が生き残ったのは、繁華街をはずれていたのが幸いしたのかも知れない。“あの時代”を知らない若者達も懐かしさを感じる日本の原風景である。電車沿いの裏路地の風景は昔のままで、植込み、盆栽、鉢植や水遣りの光景や線路脇の遊び場、通りすがりに家の中まで見えてしまう家並は、“足るを知る”という言葉がぴったりの清潔で心地よいたたずまいである。南こうせつの“神田川”に歌われている「貴方は、もう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーして 二人で行った横丁の風呂屋・・・・・」のメロディーがお似合な路線である。

全線160円だが1日400円の乗り放題の切符は、中高年だけではなく若者達にも都電の“小さな旅”として、なかなか人気がある。巣鴨の東の玄関口は、JRと地下鉄三田線の巣鴨駅だが、旧中仙道沿いに東西に一直線に伸びる商店街の西の入口が、都電巣鴨の庚申塚駅ということになる。庚申塚は、言わずと知れた庚申様である猿田彦を祭っている。今年で開基504年になるという小さな社がある。日本の習俗として「勧請」と言って特に来てもらいたい神様に御出で願うのである。

昔々の巣鴨の住民は、猿田彦と大己貴(おおなむち)と小名彦名(すくなびこな)の神様を勧請して御出で願った。猿田彦は、鼻の長い異相で天狗のような大男である。天照大神の孫の“ニニギノミコト”が地上に降臨する時に道の先導をした事で“道の神様”とされている。大己貴(おおなむち)はまたの名を大国主と言う。大国主が国を治める時、何処からともなくガガイモと言うイモの実の船に乗ってチッチャナ神様である“小名彦名(すくなびこな)”が手伝いにやってくる。橋の懸け方や病気の治療、農作物の栽培方法、病虫害の駆除などの技術指導をして秋の実りの後、稗の穂先をしならせてヒョイと天上に帰って行った神様である。

猿田彦は、どこの田舎の祭でも天狗の恰好で祭の先導を勤めている。小名彦名は、一寸法師や福助の形で今に伝わっている。これが、古事記や日本書紀に書かれた神代の時代の民族の物語である。どこの村にも町にも、お社が有り、道標の庚申様やお地蔵さんや氏神様や御神木などがあるはずである。元朝参りに土地の由緒や言伝えを語りたいものである。どこから話始めても記紀の物語に行きつくはずである。皇后陛下は、お若い頃に「神代の物語は“事実”でなくともその中に“真実”が含まれていると思う」と話されていたが、古くからの言伝えは大切に残したいものである。

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“三の酉”と“蛭子”さん

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ことしの“酉の市”も先月の28日の“三の酉”をもって終った。これで、東京でも本格的に冬の到来ということになる。巣鴨にも大鳥神社という“小さいお社”があり、毎年恒例の“酉の市”が立つ。今年の“三の酉”は、雨で心配されたのだが夕刻から雨も上がり、久しぶりに大変な人出であった。“小さいお社”ながら“酉の市”の露店は狭い路地をギッシリと埋め尽くしている。商売繁盛の神様ということで、かっ込みの“熊手”が大小所狭しと並んでいる。三、三、七拍子の手拍子がにぎやかに聞こえる明るい祭りである。もともと、この界隈には大塚の三業地があり花町のにぎわいを見せていたという。かの幸徳秋水も大塚三業地の遊郭に入り浸りながら“女性解放運動”をしていたという逸話も残っている。

関東では“酉の市”というが、全国的には“えびす講”という言い方が一般的である。いずれにしても“えびす様”をおまつりする祭りである。

ところで、先日の新聞でテレビでもお馴染の漫画家の“蛭子”さんが結婚する、という記事をみた。テレビで春風駘蕩としたキャラクターでよく登場する。苗字を耳で聞いていた時は何とも思わなかったが“蛭子”という字をよくよく見ると、とても“エビス”とは読めない。普通に読むとどうしても“ひるこ”である。

“ひるこ”と読んでやっと“えびす”の由来に気がついた。出典は“古事記”であろう。“古事記”には、天地開闢から日本列島の形成と国土が整備されてゆく様子が語られている。いわゆる“日本神話”である。“あめつちの始めの時”いろいろな神様が生まれ、その最後にイザナギ(男)イザナミ(女)が生まれた。二神は高天原から地上世界に降たつのである。“イザナギ”と“イザナミ”は、全く自然に自分の体を確認する、そして“イザナギ”は自分の体が“成り成りて成りあまるところ”があることに気がつく、“イザナミ”は“成り成りて成り合わぬところ”ありと気がつくのである。お互いの存在の確認であり“ジェンダー”は“フリー”ではない。

そして“まぐあう”のである。(昔はマグアウという漢字があったが、今は辞書にも見当たらない、本当は女偏に溝と書く。字を見た通りで分かりやすかったのに残念である。)しかし“まぐあい”の作法にかなわず、不具の子が生まれる。これが“蛭子”である。この子を水子として水に流すのである。この神話を悲しんで日本全国、この水子の“蛭子”が“えびす様”になって戻ってきたという伝説が各地に残っている。

ついでながら、放送禁止用語の第一位に位する“卑猥”の4文字“00んこ”もここから由来する。“まぐあいっこ”の鼻音の“グ”が“ン”に変化したものであろう。はじめて、古事記を読んだ時に気付いていたが学者先生も“恥ずかしい”のか誰も言わないので私が書く。古くから伝わる“由緒正しい”日本語である。最後の“コ”は平安朝のころの宮廷用語では言葉の最後に“コ”をつけるのが流行ったらしい。このことは、夢の中で清少納言と紫式部に教えてもらった。今では東北にだけ、この名残が吹溜まって残っている。東北では何にでも“コ”をつける。動物の子供を言う時がなかなか面白い。犬っこの子っこ、猫っこの子っこ、馬っこの子っこ、熊っこの子っことなる。

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きょう“朝顔”が咲いた

                      2006/11/21 04:00 

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秋風が吹いたと思ったら、たちまち11月も下旬を向かえることになってしまった。人形町の“べったら市”が終り、“一の酉”も“二の酉”も済んだ。今年は“三の酉”まであるそうだ。巣鴨では、恒例の菊祭も終った。気の早い所では“クリスマス・ツリー”の飾りつけさえ行われている。まあ、どちらかというと最早、冬の季節感のほうが漂う。と、こんな時期に我が家では、なんと今日も朝顔が咲いた。あと3芽残っているのでいつまで咲き続けるか楽しみである。

もう、26年間も朝顔と付き合っているが、こんな年は初めてである。毎年決まったように浅草の“朝顔市”に出店している巣鴨の露天商の親方からの頂き物である。巣鴨の全商店がその頂き物の朝顔を毎年店頭に飾っている。巣鴨の街の“夏の風物詩”の一つでもある。夏は見事に朝顔のオンパレードとなるが、店頭から一つ欠け二つ欠けてしまって残るは、私の所だけのようだ。毎年、遅い時期までもたせている方なのだが、今年はどうしたことか9月に入るやほとんどの葉がなくなってしまった。

「今年は、終わりが早いね」と言っていたが、その原因は青虫だった。綺麗に食べられてしまい枝を残すだけの無残な姿である。捨ててしまっても惜しくない様な鉢だが、とりあえず残しておいた。そして、10月に入ると、驚くなかれ毎日花を付け出したではないか。なんとも奇妙な生命力であると感心しきりである。

生命力というと、二つの生命力の話がある。今年のはじめに友人がきて「癌という診断がでて、今年いっぱいと言われたので、お別れに来た」という。こんな場合なんと慰めていいのか言葉につまる。だが、この宣告されていた死期を前にして全身に転位していたという彼の癌はがだんだんなくなってきている、というのだ。思うに、彼が以前から生活信条のようにしている“世の中、なんとかなる”という言葉が支えのようだ。彼が中学校で苦しかった時、先生が“世の中、なんとかなる”という言葉を教えてくれた、そうだ。それ以来、彼は、事ある毎にこの言葉を呪文のように唱えるのだという。“なんとかなる”という大いなる“楽観”が生命の復活をもたらしたものだと思えてならない。

いまひとつの話は、近所にいた新聞配達の“お兄ちゃん”の話である。大塚に癌研があった当時のことである。彼の父親が癌研に入院した。ある時、彼は嬉しげに「父はほとんど治りました」といった。そして、しばらく後、悲しげな顔をして「父が亡くなりました」と話した。当然癌で亡くなったものだと思い「やっぱりだめでしたか」と慰めた。しかし、彼の話は「いえ、癌で死んだのではありません。癌はほとんど完治してました」という。「ではなぜ」と聞き返す。「癌研の階段で足を滑らせて、頭を打って死にました」という。聞いていて、失礼ながら吹き出しそうになった。

このごろ、諸外国の科学者達もこの世の動きを“サムシィング・グレート(偉大なる者)”の力が働いているとも言っている。私達は、人智の及ばぬ事が多いと知るべきである。まして、人の寿命を断定するなどという“罰当たり”なことは厳に慎むべきである。

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紅葉狩り

FI107888035_0E.jpg                     2006/11/14 05:00

昨年のちょうど今頃のことである、話の種に一度行ってみたいと思っていた北関東の名勝谷川岳の紅葉見物に出かけてみた。11月に入ってしまったので時期を失したかと思いきや、丁度の見頃であった。“一の倉沢”という響きの良い渓谷の眺望は、絢爛豪華という形容がピッタリの絶景だった。葉の落ちない照葉樹林や針葉樹林と異なり落葉する樹林は、なかなか色調が豊かである。街道を暫らく走ると“土合”という名の駅に出た。土地に不案内な為、何と読むのか惑う。訓読ならば“つちあい”音読ならば“どごう”マゼコゼに読む“円高・外為”のような重箱読なら“どあい”である。“成金・消印”のような“湯桶読 (ゆとうよみ)”なら“つちごう”などとも読める。結局、言葉の響きから“どあい”ではならろうかと、見当をつけた。土地の人に聞くと案の定“どあい”でアタリだった。鉄道マニアの間では、上越線のモグラ駅として有名らしい。トンネル駅を見て“土合”という地名に納得がいった。 

昔、子供達の間で言葉の言い換え遊びがあつた。“いにしえ”の昔 武士の“さむらい”が “山に登って”登山して “馬から落ちて”落馬して “おんな”の婦人に笑われて“家に帰って”帰宅して “仏の前”の仏前で “腹を切って”切腹をした。という具合である。一つの事を二通り三通りに言う遊びである。以前、“いわゆる一つの長島語”として有名になった“夢のドリーム”という言い方は、今でも子供達の習字の手本となっている“千字文”を読むよきの“文選読” という読み方とおなじである。“宇宙”の“”おおぞら・・“天地”の“あめつち”・・という読み方である。

長島さんは、イワユルひとつの動物的直感で古代から続く日本本来の学習方法を体得したのかも知れない。しかし、此の頃の新聞を見ると、町村合併で大切な地名が雪崩の如く崩れ始めた。“アホ”な市町村の“バカ”な多数決の成せる業だ。ダシも出ないイワシの頭とタラの頭が寄り合って民主的多数決が、このザマである。市町村議員達の幼児退行ここに至れりといったところである。さいたま市 つがる市 さぬき市などの平仮名系 南アルプス市に負けじと中央アルプス市まで出来るそうだ。成立しないそうだが、南セントレア市 あっぷる市などは、言語道断で開いた口も塞がらない。惜しい事に、奥入瀬も“おいらせ”になるそうだ。奥入瀬の字面からだけでも風景が広がるものを、と惜しまれてならない。以前、私の姉が始めて東京に来て、上野から巣鴨まで山手線で来た時、鶯谷というところを通って“ヒグレサト”とか“ヒグレノサト”とか言う綺麗な地名の所を通って来た、と言う。“日暮里”である。“ニッポリ”と書いてしまえば身もふたも無い。

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“出羽の守”の話

                   2006/11/13 05:00

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染井吉野の発祥の地である巣鴨の桜は、花冷のおかげで今年は、有難いことに強風にも耐えて例年よりもかなり長持している。毎年、我国では桜と共に新しい事柄が始まる、山の神様である桜を田圃に供え、田の神様を招いて田植を始める国である。まさに、桜は事の始まりを象徴する花と言える。入学,入社や事業年度も4月を以って始まる。桜前線という気温を示す目印でもある。古くは、西行法師が「願わくは 花の下にて我死なん その如月の望月のころ」と詠んでいる。桜は咲くもよし、散るもよしの花である。

ところが、外国では入学,入社、事業年度などは、みんな9月から始まるのだから日本も国際化に合せて9月を年度の開始にしよう、といっている評論家とかコメンテイターという輩がいる。昔、外国に行くことを外遊と言っていた時代には「外国では・・」「アメリカでは・・」「フランスでは・・」という“出羽の守”という連中が沢山いたが、この頃、またぞろ「出羽の守」が増え出してきた。新たに“中国出羽の守”や“韓国出羽の守”まで出現してきた。“中国出羽の守”や“韓国出羽の守”は、どこのお国の人かと思えるほど日本を悪し様に罵る。

ただ、“出羽の守”諸君の発言はなかなかどうして立派な反面教師として役立っている。彼等が言えば言うほど物事の真実がシッカリ見えて来るあたりが面白い。“日本では”茶室での会話の心得として言ってはいけない暗黙の禁句がある。「我が仏 隣の宝 婿舅 天下のいくさ 人の善し悪し」という。一般でも日常的に守りたいものだが、なかなか守るのは大変だ。これを守れば、テレビも週刊誌もタブロイド紙も無くなってしまう。

「我が仏」とは、自分の信じる宗教、「隣の宝」とは人様の財産、「婿舅」は今では「嫁姑」ということだろう、「天下のいくさ」とは政治向の話ということになろうか、「人の善し悪し」は今では「男と女」といったところだ、テレビが最も得意とする分野でもある。まあ、ほどほどのガイドラインを以って互いに傷つきあわない様にしよう、とする先人の知恵といえよう。最低限「中国出羽の守」や「韓国出羽の守」の諸君は、諸君の宗主国に我国の格言「我が仏 隣の宝 婿舅 天下のいくさ 人の善し悪し」を教えてやっていただきたい。せめて“我が仏”だけには、絶対に手をかけるな、と。くれぐれも,礼節と節度とコモンセンスをお忘れなきように。
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“日本待望論”の復刊を望む!

                     2006/11/12 05:00

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平成10年に産経新聞から刊行された「日本待望論」という1400円の本が、いま古書店で3840円の高値がついている。たった8年前の古書にそんな価格がつくのは異常な現象である。発売されたのは、バブル崩壊の真只中で日本人が茫然自失していた頃である。なにかにつけて、自信を無くしかけていた日本人に対してフランス人のオリビエ・ジェルマントマという作家が寄せた「愛する故に憂えるフランス人からの手紙」という副題がついていた本である。発売当初はかなり広く読まれた本であったが、このところしばらく「日本待望論」の話をする人もなかった。だが、この古書の高値の意味は、この本を読みたい人が多くなっているということだろう。

オリビエ・ジェルマントマという人は1968年(昭和43年)フランスの学生街カルチェーラタンに端を発した革命運動の最中に「フランスをソ連、東欧、中国、ベトナムにするな」と敢然と左傾化していく大きなうねりに立ち向かった勇敢な男である。当時ソルボンヌ大学院の学生で24才の若者である。栄光ある祖国フランスの第五共和制を守る為ただ一人でこの流れに立ち向かった。

日本でも全共闘や東大保田講堂攻防戦などの騒乱のあった頃である。ジェルマントマは言論をもって革命勢力を圧倒し、フランスの英雄となる。ドゴール大統領に「偉い男だ・・・」と言わしめた。ドゴール大行進の時にはドゴール大統領、ポンピドー首相、作家アンドレ・マルロー文化相と共に行進の最前列を歩む彼の姿があつた。

その後、彼は政治の世界を離れフランス国営放送のプロデューサーとなり、紫式部、川端康成、三島由紀夫など日本文化をフランスに紹介した。現在は作家で初代シャルル・ドゴール研究所理事長である。 彼は世界の主要40カ国を巡り5度にわたる訪日で、北は北海道のアイヌの村から南はナポレオンが驚愕した武器を持たない島沖縄までくまなく歩き“日本こそ神に祝福された蜜と乳の流るる土地”であり“約束の地”と確信するに至る。しかし、その祝福され土地に住み、幾年月も変わらぬ歴史と文化を持つ日本人がその事に気付かないのはなぜか・・。

さらに、キリスト教に変わる前のフランス人の祖先ゴール人さらにその祖先のケルト人が持っていた宗教感と、日本人の自然と共生し山川草木に神聖を感ずる宗教感とは相通ずるものがある、と言っている。さらに将来的に“人類の共通の普遍的真理”をなぜに、日本列島の中だけに閉篭らせて世界に広めないのか、と。 オリビエ・ジェルマントマは我々に一枚の写真を投げかけている。彼が鹿児島の知覧で見た神風特攻隊の少年飛行隊員が写っている写真である。翌日の特攻を前にして,子犬を見つめて穏やかな笑みを浮かべた若者達、それを見送るため神の木である榊を振る女子学生達。千万言の言葉を弄するよりこの写真は彼等の心情を良く伝えている。彼は言う。「日本よ、すみやかに誇りと主権を取り戻されん事を! 日本万歳!」と。

   写真 オリビエ・ジェルマントマ著「日本待望論」より

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巣鴨に来た“ヤポンスキー”

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もう13年も経ってしまったが、冬の寒い或る日の事だ。毛で覆われた寒冷地用のロシア帽を被りスターリンやブルガーニンの様な特異な服装をした一団が、巣鴨に来た。どこから見ても日本人の容貌だが、風体から見てどこかちょっと違う様子だ。日本人そっくりのカザフスタンなどの人達かと思ったほどである。しかし、彼等は、ロシアに残留した“ヤポンスキー”だと名乗った。成立後74年で崩壊してしまった“ソビエト・ロシア”からの帰国ということらしい。あまり立ち入って聞けない事情が有ると察せられる。

戦後、ソ連に残留し得たのは、まさか小野田さんの様な愛国的残置蝶者ではあるまい。残置蝶者を見過ごす程、当時のソ連は甘くはなかろう。“抑留”と言う名の“拉致”で60万人をシベリアに拘束し6万人を“白樺の肥やし”にする事を手伝い、さらに祖国ロシアと叫び、密告に次ぐ密告で仲間を裏切りソ連に亡命した人達としか考えられない。戦後、よくシベリア帰りの方々からご苦労話をお聞きしたものである。彼奴だけは、生かしておけないと言われた“袴田天皇”と言う名も昔、聞いたことがある。

それから大分経ってから、産経新聞の「正論」というコラムでロシア問題の論客で青山学院大学教授の袴田茂樹の一文を目にした。彼は、自分と家族の事を赤裸々に書いていた。氏は民間出身初のロシア大使の呼び声も高いと聞く。彼の父は徳田球一、志賀義雄、野坂参三と共に共産党の指導者だった袴田里見だと言う。そして、袴田里見の弟こそ戦後ソ連に亡命しシベリアの“袴田天皇”と恐れられた袴田睦奥男である。「教師の子はグレルとか、牧師の子はグレル」とよく言われるが、正にその通りである。同じくロシア生れの袴田睦奥男の娘も学生時代から実の父に反発し、共産主義にも反発し自由主義を標榜し「経済自由党」を結成し書記長に就任する。目指す処は、日本の「自由民主党」だと言う。

今、ロシアで保守とは頑迷固陋な共産主義者を言い、革新とは、自由経済路線を採る者を言うらしい。日本で言うところの「保守 革新」とは正反対である。袴田睦奥男の娘とは、先般新聞紙上をにぎわし、昨年のロシア大統領選でプーチン大統領に果敢に挑んだイリーナ・ハカマダだということだ。歴史の皮肉としか思えない。74年もかけてコノザマである。共産党宣言の冒頭に「ヨーロッパに妖怪が出ると言う。共産党と言う妖怪が」と書かれているが、当時の人々の“直感は誤たず”である。誤ったのはそれに対する“判断”である。しかし、このイディオロギーの残した罪は大きい。フランスでいち早く出版された「共産主義黒書」に依ると共産党が抹殺した人数は、ソ連2000万人 中国6500万人 ベトナム100万人 北朝鮮200万人 カンボジア200万人 東欧100万人 アフリカ170万人 総計1億人だということである。

ヨーロッパや東欧でマルクス主義を唱えた学者達に対する世論による追撃戦は厳しく、彼等に残された仕事は運転手か肉体労働のみと言う状態である。妖怪の末裔もだんだんと残り少なくなって来たが、未だに我国には“妖怪”を信奉する者達が跋扈している。日本人の場合、寛容と言うのだろうか、遂に彼等に対する追激戦を行わなかった。識者は“武士の情”だと言うが、それは論理上の怠慢であり思想の怠惰なだけだ。既に、彼等は新しい“見栄えの良い衣”に着替えてしまった。人権派、緑を守る環境派、無性別ジェンダーフリー、反戦平和、自虐史観、 NGO法人(nongovernmental organization ) NPO法人(non-profit organization ) オンブズマン 市民運動 OOを守る会 人間の鎖 などなどに見事に変身してしまった。  キオツケロ!!  

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終戦直後の“熊沢天皇”

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この頃、また“古事記”の人気が出て来て、本屋さんでも良く売れているらしい。4年ほど前にも文芸春秋から三浦佑之著の“口語訳 古事記”が出版されよく売れたそうだ。内容は口語体で「あれは、昔々のことじゃった・・・・」というような書き方なので非常に分かりやすく読みやすく書かれていたと思う、だが、いかんせんあまりの大部なので持ち歩きも出来ずてこずった人が多かったのではなかろうか。

さらに産経新聞が連載した八木荘司という論説委員の書いた「古代からの伝言(4部作)」は、さすがに新聞記者の書く書き方は臨場感があって面白いと感心した。古事記も日本書紀も網羅してダイナミックに物語を展開しているので一気呵成に読むことができる。是非とも若い人達におすすめしたい書籍である。せめて、これから留学生として外国に旅立つ人にはぜひ携帯してもらいたい。「日本ってどんな国」と言う質問に対して日本の伝統文化を誇りを持って答えてもらいたい。

NHKでもラジオで、森繁久弥さんなどが古事記の物語を放送するそうだ。テレビでなくラジオだというのがなかなか良い。古事記がふたたびブームになったのは、まぎれもなくいま問題になっている皇室典範のおかげである。小泉首相でさえ「愛子様のお生みになられた男子でもダメだということですか?」とトンチンカンな話をするほどだ。国会議員諸氏は「これから勉強して」と言ってなんの恥じらいもない。白髪のロボットじいさんと国連ボケばあさんは、なにを勘違いしてか皇室を恫喝しさえしている。まあ、今回の問題提起は我々日本人にとって国柄を考える良い機会だと思う。国の成り立ちや国の有りようを腰を据えて語りあったら良かろう。

ギリシャ神話やローマ帝国興亡史や旧約聖書は良く知っていても、日本の神代の時代から言い伝えられて来た物語を知らないというのは、いささか変な話だ。この機会をぜひ活かしてもらいたいと思う。古事記、日本書紀を一読すると、おのずと結論が出るはずだ。物語の中に書かれている事実こそ125代、2665年の時代を律してきた「不文法」と考えるべきである。

さて、皇統の問題で終戦直後こんな事があった。名古屋で雑貨屋をやっている熊沢寛道という人が「自分は544年前の南北時代に北朝に皇位を奪われた南朝の最後の天皇である後亀山天皇の末裔である」という1通の手紙を出した。GHQも一応調査したところ、明治時代から彼の父・熊沢大然という人も政府に訴え続けていたそうだ。不敬罪という罪があった頃、ながい年月「おとがめなし」だったのは、その話はあながちウソとばかりは言えないようだ。

このへんが、長い歴史のある日本という国の面白いところである。GHQは利用価値ありとふんで、米軍紙「スターズ・アンド・ストライブス」や「ライフ」に載せて世界中に喧伝した。その内容は「56歳の商店主、ヒロヒトの皇位を請求」、「皇位の回復を554年待った!」などであった。昭和天皇の全国行幸と同じ様に「熊沢天皇」も侍従まで引き従えてGHQのジープまで使って行幸したと言われている。その頃、子供の間でも行幸遊びが流行った。どの地方でも昭和天皇の行幸の話が残っている筈である。昭和天皇が好物を聞かれて「ウナギ」とお答えになったところ、行く先々で毎日毎日ウナギ攻めだったそうだ。それ以後、質問にたいするお答えが「アッソウ」というお答えになったと聞いている。

不敬ながら子供の遊びでも「アッソウ」も流行った。「熊沢天皇」の出現は歴史を考えるために、ちょうどよい機会だったと思う。熊沢天皇の言う通り544年前からのルーツを辿るならほとんどの日本人は同祖同根と言う事になる。一説によると、日本列島で生活した人数は、およそ五億人だそうだ。2,4,8、16、32、64、128・・とネズミ算で計算してみると、とんでもない数字が出てくる。桓武天皇から出た平氏や清和天皇から出た源氏の末裔はもはや数千万人になるのではないだろうか。いまだに、全国いたるところに平家の落人部落が伝説として残っている。まことに、なにひとつ壊さず残した先人に感謝せねばなるまい。その後、「熊沢天皇」の消息は知れないが、まだ連綿と子々孫々と続いていることだろう
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日本復活宣言 “日はまた昇る”

FI107891579_0E.jpg                    2006/11/09 05:00   

いま“日はまた昇る”という本が人気を集めている。かの、ヘミングウェーの「日はまた昇る」ではない。16年まえ「日はまた沈む」を書いて見事に日本のバブル崩壊を予測した、英国の“エコノミスト誌”の編集長のビル・エモットによる“日本復活宣言”の本である。日本の崩落を予見したほどであるから、今度も期待と楽観をもってこの説を歓迎したい思いである。バブルが崩壊してから、15年の長きにわたり、日本は低迷を続けたが、彼はこの間に日本がゆっくりと、確実に変わったと言っている。

日本は、債務と生産能力と雇用における三つの過剰がなくなり、さらにいろいろな制度の改革は経済を効率化した、と言っている。そして雇用と所得の回復も見えはじめており、ようやく“日は再び昇りはじめた”という。さらに競争と効率化と生産性上昇を促せれば、少子高齢化社会でも年3パーセントの成長が可能であり、日本という国は歩みの遅い着実なカメであるが、足は速いが不安定なウサギである中国に将来的には必ず勝つだろうと予測している。

彼の提言の一つに、日本のこれからの労働力不足が挙げられている。人間に代わるロボットその他の機械を発明し、利用しなければならないだろう、と言っている。彼は、三週間にわたる日本滞在中に日本の各製造業の実態を観察して、日本は今後も世界有数の製造業国であり続けるに違いない、と結論つけている。

ただ、一つ気になるのは、靖国問題にまで言及していることだ。中国,韓国との摩擦を避けるため靖国とは別な“ニュートラル”な施設の設置を提言している。経済同友会や財界団体や日経新聞などと同じ意見だ。“経済屋さん”の思考方法は一般人の目から見てもなんとも情けない。金になるなら主義主張も捨ててしまえという暴論である。藤原正彦氏が「たかが経済」「苦しくなったら皆で力を合わせて我慢すればいい」と言っている。庶民にとってまさに正論である。誇り無くして、国家の独立も存立もあったものではない。

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昭和20年代の歌声の風景

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先週、童謡歌手の川田正子さんの訃報に接して以来、久しぶりに昭和20年代のいろいろな風景を思い出した。歌による記憶というものは、かなり鮮明に残るものだ。敗戦をはさんで前後1、2年の子供の頃の記憶を今でもかなりハッキリと思い起すことが出来る。それは、どうもその頃聞いた歌声に関係が有るようだ。私の家の前には防空壕が有り、その隣に今なら“ドレメ”と言うのだろうが当時は“杉野”だという洋裁教室があった。その教室から毎日のように昼食の後に女性合唱の歌声が聞こえて来た。まず、聞こえて来るのは従軍看護婦の歌であった“婦人従軍歌”である。婦人従軍歌のメロディーは夏の甲子園の高校生達が歌っている応援歌にもよく使われている。今でも全国の女子高などでは使われていることと思う。昔、なんの気なしに口ずさんでいたが、メロディーの優しさに比べて歌詞はさすがに看護婦さん達の歌なので凄まじく壮絶である。こんな歌詞だ。

火筒(ほずつ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず吹き立つ風はなまぐさく くれない染めし草の色     味方の兵の上のみか 言(こと)も言わぬ敵(あた)までも     いとねんごろに看護する 心の色は赤十字

この様な歌を彼女達は毎日歌っていつの日か、自分達も看護婦として従軍する決意だったのだろうか。子供のこととて、言葉の意味は良く分からなかったが、とにかく神々しくも有難く聞こえたものである。「婦人従軍歌」は明治27年に新宿駅から戦地に赴く看護婦の姿の凛々しさに心打たれた作詞家が一夜にして書き上げたものだと伝えられている。世界的に見てもこの様な歌は珍しいと言うことである。

次ぎに聞こえて来るのは「愛国の花」というラジオ歌謡として愛唱されていた歌であった。この「愛国の花」も優しい歌であったが奇数な運命をたどることになる。自分の記憶にはないが、終戦直後NHKの放送のテーマ曲にも使われていたそうだ。NHKに貼りついて検閲していたGHQの検閲官も良い曲だとして何の問題もなかったのに“あの曲は戦時歌謡だ”と告げ口した者がいたらしい。そして、いまに至るまで「あの歌」がロックされ続けてナツメロにも登場しない。歌詞を読んで見てほしい。どこが好戦的なのだろうか。

1   真白き富士の気高さを  こころの強い盾として       御国(みくに)につくす女等(おみなら)は  輝く御代の山ざくら  地に咲き匂う国の花                   2   老いたる若き諸共(もろとも)に 国難しのぐ冬の梅 かよわい力よくあわせ 銃後にはげむ凛々しさは  ゆかしく匂う国の花                                               
この頃では、巣鴨の町にある「昔の歌の店」で老齢の婦人達によって静かに歌われ続けているのみである。この「愛国の花」は、彼女達の青春の賛歌であり、さらに過去を弔う挽歌でもあると思われる。 それからしばらく経って、朝鮮動乱が勃発した昭和25年頃の或る日、同じ女性達が血相変えて大きな赤旗を持ち「インターナショナル」を歌い「聞け万国の労働者・・・・我等は赤旗まもる」と歌い出したのには、正直驚いた。イディオロギーが、かくも人を変える事に恐れるとともに嫌悪すら感じたものである。それが私の“赤旗アレルギー”のゆえんでもある。
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“セーノ”で持てたら日本人

                   2006/11/07 06:00                   
                     
多分、昭和30年の頃だったと思う、今でも出版されている筈だが「リーダース・ダイジェスト」と言う外国文化を覗き見る窓口として貴重なアメリカの雑誌があった。その時代、本屋でも飛ぶように売れた雑誌である。なんとも、今なら中途半端なB6サイズで、ポケットに押し込めることの出来る大きさだった。外国を見たい、知りたいという好奇心で当時は良く売れた雑誌である。今も発売されていると思うが,あまり見かけることがない。

日本の自動車産業が、勃興の緒に付いたばかりのころだ。記事の細かい内容は、殆ど忘れてしまったのだが、ラリーに参加した日本チームが、再三にわたり転倒した車を起こす時“セーノ”と言って持上げる。我々にとっては、ごく当たり前で何の不思議もない掛声だが、外国人には、かなり奇異に思えたらしい。“セーノ”のどこが1で、どこが2で、どこが3なのか計りかねたらしい。そして、日本チームを“ミスター・セーノ”と呼ぶことになる。

“セーノ”は、今でも、一般的に使われている。若者や子供達の間では“イッセーのセ”と言う掛声も有る様だが、所詮“セーノ”の亜流バージョンと言ったところだ。良く考えてみると“セーノ”といった切れ目の無い掛け声は、不思議な掛声である。“セーノ”の最後の“ノ”など音も無ければ力も無い。そこの一点で、物を持上げようとするのが、外国人には理解出来ないのだそうだ。これは“気合”と言うものかも知れない。このリズムと気合こそ日本人を日本人たらしめているアイデンティティーではなかろうか。

古代の、吉野ヶ里でも三内丸山でも登呂でも出雲でも“セーノ セーノ”の掛声で土木工事が行われたのだろう。さらに、文字の無い古代に設計図はどうしたのだろう。たぶん、水前寺清子の“365歩のマーチ”の歌のように「3歩進んで2歩さがる」と七五調で記憶して頭に入れて“6尺進んで 5分下がり”などいと言って勾配を出したり。「3尺丸太は芯柱」「コナラの角材根太にせよ」「ケヤキの木目は表出し」「鴨居の角に太鼓鋲」などと言っていたのではなかろうか。テレビのバライティー番組で“モー娘”とか言うアイドル達に物を持たせると“セーノ”と言っているのを聞くと、民族のアイデンティティーここに存すと思わざる得ない。“セーノ”で物が持てたら“日本人”にしたら、どうであろう。

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“百聞は一見に如かず”

b0002123_10181523.jpg                    2006/11/06 05:00

新聞によれば、中国に進出するため米国の大手IT企業のヤフーのみならずグーグルまでもが中国の言論弾圧に屈服したそうだ。米議会の聴聞会で大手4社の役員は激しく叱責されている映像がテレビでも流されていた。アメリカの民間IT業者は、言訳の様に「民間の力だけでは打開できない壁がある」というような発言をしていた。たしかに、今の中国に進出して行くのは、大きなリスクが付きまとうし危険も覚悟せねばなるまい。もともと、中国は中華人民共和国というレッキとした“共産党が独裁”する民主主義もなければ、気の毒にも自由というものをかつて経験した事もない国である。

国名に、羊頭狗肉の如く“人民”と“共和”をかざしているところなど、まさにご愛嬌である。昔、ココムとかチンコムといった共産圏包囲網があったが今はあまり耳にしない。中共を中国と言い換える様になってから、本質的になにも変わっていないのに中華人民共和国に対する対応が随分ちがってきたみたいだ。しかし、中国は、なかなかどうしてシブトイ国だ。それを承知で進出したヤフーもグーグルも金目当てとは言え良い道筋をつけた。彼等の進出によって中国は、ソ連が情報公開によって崩壊したように“コペルニクス的大変革”をきたすだろう。

視聴覚に訴える情報というものは、我々日本人も、かつて経験したが、とてつもなくおおきな破壊力がある。私が終戦直後に経験した特に大きなカルチャーショックを受けた情報が3つある。まず、映像によるショックである。戦後まもない頃、私共の校長が文部省からアメリカの教育事情の視察を命じられてアメリカに旅立った。まだ、当然の事ながら、空路もなく「憬れのハワイ航路」もない時代、アメリカ海軍の巡洋艦に乗って1月がかりで行ったということだ。たまたま校長の息子が友人だったのでアメリカ土産の双眼鏡みたいな形をしたスライドを見せてもらった時の驚きは今でも鮮明に記憶している。カチャと回すと“総天然色”で摩天楼と言われたエンパイアステートビルが現れる、次ぎにカチャと回すと、巨大なナイヤガラ瀑布が出てくる、さらにシカゴの巨大な台自動車工場が出てくる、圧巻はマッハッタンを闊歩する人々の色鮮やかなアメリカ人の服装である。“百聞は一見に如かず”とはまさにこの事だ。百万言を費やすよりも映像は、かくも雄弁である。

次ぎに、驚いたのは当時、朝日新聞に連載されていた「ブロンディー」という漫画である。アメリカの一般家庭を題材にした漫画だが、その中に描かれている絵は一つ一つ衝撃的だった。テレビを見る夫ダンディーに、トースターでパンを焼いているブロンディーが芝刈機で庭の芝刈りをして欲しいと言っている。アメリカ人にとっては、なんの変哲もない日常の一コマだろうが、テレビもトースターもまして芝刈機なぞ見た事もない者にはショックでもあり憧憬でもあった。そして、闇市に氾濫する米軍から流出した物資の数々。キャメルやラッキーストライクなどのタバコ、ハーシーのチョコレート、レーションという戦闘食の缶詰の中には食料の他に、おやつやタバコ2本まで入っていた。あの物資の豊富さには圧倒されたものである。ネスカフェの空瓶にいれた水が日にかざすと綺麗な水色だったのも一つの驚きだった。

その後、ネスカフェの空瓶は昭和31年の夏の登山の時まで重宝した。文化ショックを受けながら、未だに確かめていない事が一つある。進駐軍の兵隊は「缶ビールを冷やすのにガソリンを、ぶっ掛けて気化熱で冷やすそうだ」という噂があったが、50年以上経った今でも試していない。此れだけは、なんとも罰当たりな気がしてやっていない。一つの情報の風穴から怒涛の如くアメリカン・ポップスが流入して来た光景が中国本土に広がるのも時間の問題だと思われるが、どうだろう。
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「坂の上の雲」の紙芝居

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今、久しぶりに司馬遼太郎の「坂の上の雲」(全8巻)を読み返している。この小説は、もともと昭和43年4月22日から47年8月4日まで、足かけ5年間、1296回にわたり「産経新聞」の夕刊に連載された新聞小説である。新聞小説なので毎回一枚の挿絵が付いていた。挿絵画家である下高原健二によって描かれた挿絵である。当然ながら、出版物になってから挿絵は外されている。文庫本を読んでいて、むかし、新聞で見たあの挿絵が懐かしくて、切抜いておいた1296枚の挿絵を引っ張り出して整理してみた。挿絵を見ていて気付いたが、モノクロでデフォルメされた絵柄は写真と違って事の本質が良く表わされている。戦艦三笠と人物の大きさの比較、戦艦と巡洋艦の大きさの違い、魚雷を抱いて敵陣に飛びこむ海の刺客“駆逐艦”の木の葉のような小ささ、28センチ榴弾砲の規模、ペルシャ人の服装、シナ人の風習、登場人物の表情あるスケッチなど文章では表わしきれない部分を見ることができる。また、モノクロなるが故、血の色を見ずに叙事詩を垣間見るようである。

司馬遼太郎は、生前ことあるごとに、「坂の上の雲」だけは映像化させないと遺言の様に言っていたのは「血塗られた映像」を嫌っての事ではないだろうか。しかし、著作権の相続者である御夫人からNHKが映像権を手に入れ二年後に大河番組として75分で20本の放映を予定しているそうだ。通常の大河番組の予算が一本6000万円のところ一本につき4億円の予算をつけるそうだ。総額80億円である、くれぐれも、原作に素直な編集を望んでいる。

「坂の上の雲」が新聞紙上に掲載された38年前には、日韓条約も日中条約も締結されていない時代であった。通常、平和条約を締結するという事は、すべてを“ご破算”にして“手打”をして以後、異論をとなえないのというのが国際法上の常識である。しかし、中国、韓国ともに、いまだに“歴史認識”という“手口”で内政干渉をしてくる。もし「坂の上の雲」がいまの時点で出版されたなら、彼等は、いちいち口をさしはさむに違いない。まことに良い時期に「坂の上の雲」は出版されたものだ。時代的にも日本が自信に満ちて高度成長を遂げていた時期であり、安心してゆったりと日本のルーツをたどるのに最適な時期であったと思う。この作品を読んで自虐史観から脱した人も多かったと聞く。

“坂の上の雲”は、これまで多くの人々に広く読まれてきており“坂の上の雲”を求めて、とか“坂の上の雲”を目指して、と言うだけで一瞬にして理解しあえるキーワードとなっている。「坂の上の雲」は、日本の近現代史を振り返る上でまたとない手本と言えよう。 今年の「菜の花忌」で司馬遼太郎夫人の福田みどりさんの談話で「司馬さんは、坂の上の雲を世界の人達に広く読まれる事を望んでいた」といっていたので、翻訳があるのかと思ったら、英訳もこれからだという。マサチュセッツ工科大学の日本語学者ウイリアム・ナフ名誉教授によってただいま英訳中ということだ。もっと早く英語版を出して世界に発信するべきだった。世界にはまだまだ、「坂の上の雲」を見上げている国がたくさんあるのである。万国公法という国際法をこれだけ健気に遵守した国家が日本以外に世界史上あっただろうか。

語り部倶楽部では、現在「坂の上の雲」を紙芝居形式の瓦版にしておりますので、ご覧下さい。
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B29が落した“ストーブ”

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                     2006/11/04 06:20 

先日、60年ぶりに一つの勘違いに気付いた。人間の記憶とか勘違いとかは、けっこうあるものである。たまたま、井上ひさし著の「東京セブンローズ」という本を読んでいた時に急に気が付いた。「東京セブンローズ」は、井上ひさしが17年かけて書き上げたという力作である。彼は、古書店で根津の団扇屋の主人の日記を入手してこの作品を書いたという。主人公の団扇屋主人の終戦をはさんでの前後一年間の物語である。私など、65才位で戦時の記憶を微かに残している年令層を、後期焼跡派というそうだが、自分の記憶に合致する事ばかりであり懐かしく読んだ。

今では、死語となっている防空頭巾 防空壕 軍管区情報 灯火管制 空襲警報 ボーイングB29爆撃機 パシュートP51邀撃機 艦砲射撃 配給 ララ物資 物々交換など久しぶりに聞く言葉である。B29が東京空襲の時、ジェル状になったガソリンを空から撒き散らし空になったドラム缶を捨てて行く場面があった。この場面で、ハタと過去の事実の勘違いに気付いた。私も子供の頃、同じような経験をした。私の家のかたわらにB29が“ストーブ”と焼夷弾を落として行った。今、思い返せば、命拾いした分けだが、当時はその“ストーブ”を重宝したものである、その後“アラジン”というその当時にはダイピットした英国製の石油ストーブを買うまで使った。

直径15cmで長さ30cm位の不発の焼夷弾は、恰好の台敷でクギの頭を潰したり鉄板を叩き出すのに便利な代物だった。小学生の低学年までB29が完成品のストーブを落として行ったとばかり思っていた。だが高学年になって、このストーブを家で作ったと知った。それならば、“ストーブ”のままで落ちてきたのではなく、鉄板の状態で“ヒラヒラ”落ちて来た物だと気が付いた。“オマケ”としてに、鉄板の延圧加工に便利な焼夷弾が「工作キット」として付いて来たのは幸運とさえ思えた。だが“東京セブンローズ”の中で老人が「ドラム缶爆弾じゃ、ドラム缶爆弾じゃ」と狂気する場面で一瞬にして「ストーブ」の正体を知った。たまたま空のドラム缶と、たまたま不発の焼夷弾がセットになって落ちてきたのだ。僥倖としか言えない。日本全国には、かなりの数のドラム缶が投下された筈であり、同じ様な経験をした人も多いはずである。

「東京セブンローズ」は、主人公の団扇屋の2人の娘を含む7人の「東京ローズ」が当時、日本語をローマ字化しようとする進駐軍の策動に対し「国破れて、国語あり」と立ち向かう話である。「東京ローズ」とは、米国籍の日本女性で米兵向放送した事で、80才に成るまで米国籍を剥奪されたアイバ戸栗ダキノさんのことである。日本語の名手である井上ひさしは、7名の東京ローズに日本語に対する思い託したのだろう。たしか、あの志賀直哉でさえ「日本語を捨て、美しいフランス語にすべき」と主張していたものだ。哲人シオランの言によれば「人間は、国土に住むものではなく、国語の中に住むものだ」ということだ。日本語を話す者は、日本人と言う事になれば、少子化による人口の減少なぞ、恐るるに足らずだ。日本語を話し、物を持上げる時「セーノ」で一緒に持てたら立派な日本人だ。

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みかんの花咲く丘

22011629_1733_2.jpg                     2006/11/03 06:00 

平成18年1月22日“我等が時代”を象徴する童謡歌手の川田正子さんが71才で急逝した。敗戦の年である昭和20年に外地から復員船に乗って帰国する兵隊さんを迎える「里の秋」を歌い、昭和21年には、今でも歌い継がれている「みかんの花咲く丘」を歌い、翌昭和22年ラジオドラマで人気を博した復員兵と逞しく生きる浮浪児達の物語「鐘の鳴る丘」を歌った“あの童謡歌手”である。

ラジオしかなかった、あの時代、ラジオから流れる「音羽ゆりかご会」の子供達の声に聞き入ったものである。延々と流れる「尋ね人の時間」の後の歌声ほど人を慰めたものはない。まさに「時代のメロディー」そのものである。さらに、川田正子さんは、今では「汽車汽車シュッポシュッポ」となってしまったが、元歌の「兵隊さんの汽車」を歌って出征兵士を元気ずけた歌手でもある。もともと「兵隊さんの汽車」は「僕等を乗せて」ではなく「兵隊さんを乗せて」である。さらに「走れ走れ」ではなく「万歳 万歳」である。戦後すぐに小賢しい奴達がGHQを恐れてコソコソと変えてしまったのだそうだ。この事についてサオウ・ハチローが自分で書いた詩でないのに、激怒していたのを今でも覚えている。アノ時から、江藤淳の言うところの「閉塞する言語空間」が始まったのではないだろうか。今に続く、他国の大使館に「ご注進、ご注進」と言って駆け込むメディアや文化的進歩人と言われる者達の“姑息な”真の姿である。

それはさておき、昨年たまたま、団体旅行で伊豆の伊東温泉に行き、山手の高台に位置する「ホテル聚楽」という宿に泊まった。山々の蜜柑畑ごしに相模湾を一望出来、さらに遠く伊豆大島を見渡せる絶好の宿であった。何気なく風呂上りに中庭を見ると、眺望の良い所に一つの碑が建っている。碑文を読み、この宿が「みかんの花咲く丘」そのものである事に感動した。「音羽よりかご会」を主宰する作曲家の海沼実と当時12才の川田正子ちゃんが、地元出身の作詞家加藤省吾の歌詞に曲をつける為に来たそうだ。NHKは、まだJOAKと言っていた頃、実況放送のことを二元放送と言っていた。翌日、伊東国民小学校の校庭からの二元放送の予定だったという。だが、海沼実のメロディーはまだ出来ていない。海沼実と川田正子は風呂場で背中を流しながら「みかんの花咲く丘」を完成させたという。その放送が全国に流れ、そして今も歌い継がれている。

伊東温泉で何か大切な宝物を見つけた思いであった。同年輩の者にとっては、「川田正子」「兵隊さんの汽車」「里の秋」「みかんの花咲く丘」「鐘の鳴る丘」というキーワードで昭和20年に思いを馳せる事が出来る。思い出話にも多くの花が咲いた旅であった。歌と言うのは、自転車のりと同じく何時までたっても忘れないものである。 たまには、昔を偲んで童謡でも口ずさんでみては、いかがだろうか。

            兵隊さんの汽車

汽車汽車しゅっぽしゅっぽ しゅっぽしゅっぽっぽ 兵隊さんを乗せて しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ 僕らも手に手に日の丸の 旗を振り振り送りましょう 万歳万歳万歳 兵隊さん兵隊さん万々歳            

               里の秋


    静かな静かな 里の秋    お背戸に木の実の落ちる夜は     ああ母さんとただ二人    栗の実煮てますいろり端     さよならさよなら椰子の島    お船にゆられて帰られる    ああ父さんよ御無事でと    今夜も母さんと祈ります      

               みかんの花咲く丘

1.みかんの花が 咲いている  思い出の道 丘の道  はるかに見える 青い海  お船がとおく かすんでる


    
2.黒い煙を はきながら  お船はどこへ 行くのでしょう  波に揺られて 島のかげ  汽笛がぼうと 鳴りました

3.何時か来た丘 母さんと  一緒に眺めた あの島よ  今日もひとりで 見ていると  やさしい母さん 思われる                     


              鐘の鳴る丘(とんがり帽子)               


1 緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台鐘が鳴ります キンコンカンメイメイ小山羊も 鳴いてます風が そよそよ 丘の家黄色い お窓は おいらの家よ

2緑の丘の 麦畑おいらが 一人で いる時に鐘が鳴ります キンコンカン鳴る鳴る 鐘は 父母の元気で いろよと いう声よ口笛 吹いて おいらは 元気

3 とんがり帽子の 時計台夜になったら 星が出る鐘が鳴ります キンコンカンおいらは かえる 屋根の下父さん母さん いないけど丘のあの窓 おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星おやすみなさい 仲間たち鐘が鳴ります キンコンカン昨日に まさる 今日よりもあしたは もっと しあわせにみんな仲よく おやすみなさい       
                                     
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猫のひたいの“遺産分割”

PDR_0052.JPG                    2006/11/02 06:00

先日、テレビでなかなか面白い話を聞いた。俳優の渡辺徹の話である。彼の叔父で、かなり大風呂敷の男がある酒の席で、自分に10億円あったらどうのように使うか、という話だという。いろいろな個人的な使い道以外に「徹には1億円やる、おまえには6000万円、おまえには2000万円」というように話が進んだそうだ。普段から叔父と仲の悪かった叔母が「私には、いくらくれるの」と聞いたところ「お前には、なんにもやらん」と答えたそうだ。そして、それ以来二人はお互いに口もきかず仲違のまま、その叔母は亡くなったと言う話である。

この話は、バラエティー番組なので大いに受けて盛りあがった。このような話は世間一般によくある話であり、とくに巣鴨に来られるお年寄達からもよく聞くがあまり笑える話ではないほど現実味を帯びている。この程度の仮定の話でも人は疑心暗鬼になるものである。よくこの町でもこんな話を聞く「実家の母が亡くなってから田舎からなんにも送って来なくなった」「盆暮に帰省していたが、嫁さんの代になってから帰省してもあまり歓迎されないし、居心地が悪い」と言う。さらに極めつけは「もうあんまり帰って来ないで」と言う兄嫁さえいるという。日本中で家族の柱が、なくなりかけている。

この問題の根底には、まだ分けてもいない「幾らでもない財産」が絡んでいる。いわゆる、法的に農家は農地を分割しなくてはならず、都市部では猫の額ほどの「豪邸」の分割の問題である。50坪を3人兄弟で分ければたったの15坪である、この頃15坪の建売が増えているのもこんなところからだろうか。とにかく、今の世の中は「平等」というキーワードが「全知全能の神」である。新民法が出来た頃「民法いでて忠孝滅ぶ」と言われたものだが、その頃は「まさか、そんな馬鹿な」と思ったが、実際には忠孝どころか相互不信と妬み嫉みのもとにさえなっていると思わざるを得ない。「平等に分割」という耳障りの良い言葉が、家族や一族で落ちこぼれを防ぎ助け合うという淳風美俗を損なってしまったのである。だからと言って、戦前の「家制度」に戻れと言うわけではないし、また戻れるわけもない。しかし、社会保障という大げさな事ではなく、家族の誰かが困ったなら助けてやる、という気構くらいは持つべきである。社会保障とは本来、家族の問題だと思うのだがどうだろうか。

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兵隊さんの墓標

                    2006/11/01 14:23

巣鴨の“とげぬき地蔵尊”は今日も参拝客で何時もながらの賑わいをみせている。毎日バスを連ねて様々な団体さんや観光さんが来られる。町内会 老人会 商工会 農村婦人部 信金友の会 PTA 消防分団 地方代議士応援団 簡保の宿 帝国ホテルバイキングツアー 椿山荘お食事ツアー 明治座観劇会 代理店招待会 手芸 園芸 趣味の会 はとバスツアー など様々だ。一日3980円で、足の向くまま気の向くままという、何処に連れていってくれるのか分からないツアーまである。普通の人は、不安に思うのだが、不安がらずにツアーに参加する人が多いというのは驚きである。自分で何も決定しなくて良いのが安らぎだという。

人によっては、自分の買う土産や食事まで他人に決めてくれという人さえいる。良くしたもので必ずそういうグループには、それなりの“リーダー”がいる。貴方はラーメン、貴方はタンメン、貴方はチャーシューになさい、あとの人は、私と同じ物といった具合にまとめてしまう。結構こんな具合で世の中上手くいっている。まあ、世の中“導く者と導かれる者”が居るようだ。導かれる人は、大して神経も使わずノホホンと気楽で後生楽なものだ。導く者は、かなり神経を使い、気配り目配りし忙しく動きまわり“忙しい 忙しい”と言いながらけっこう楽しげだ。そんな団体さんが、毎日この町にやってくる。

今日きた“団体さんは”は、名古屋や静岡からの靖国神社参拝の団体だった。大正生まれで出征した方々は、もう85才以上で、この参拝で最後になるかもしれないと言う。戦没者の妻達も同じく80才以上になり「来年また来れるといいが」となんとも心もとない事を言う。次ぎの世代に引継ぐために娘達やお嫁さんを同行している人もいる。そんな中に,やっと始めて同期の戦友に会いに来れたと言う88才になると言うお年寄がいた。前々から是非、靖国に来たかったが戦後の生活が苦しく出かけられなかったと言う。

子供達が成長し「さて、出かけよう」とすると「お父さんは、戦争が好きなんだから」と引き止められたという。ところが、どうした風の吹き回しか、今回は孫娘が「オジイチャンぜひ行ってお友達に会ってきて」と送り出してくれたと言って喜んでいた。「本当は、もっと早く来たかった」とポツリと話す。 

昭和31年の佐藤内閣の経済白書で「もう戦後ではない」と経済復興を果たす。それと同時にその年、戦没者の遺族に対する恩給もはじまる。遺族給付金を貰って遺族達が一番最初にした事は、戦没者の「ついの棲家」を建て「み魂を祭る」事だった。「兵隊さんのお金」で昭和31年から「兵隊さんのお墓」が建ち出した。東京都内では、地価が高いのか、あまりお目にかからないが、地方に行けば行くほど目につく。墓地の中に普通のお墓より、一際高く天をつき先端の尖ったお墓だ。亡くなられた方々は、殆どが独身で嫁も貰わず後々に墓守してくれる人もいない。靖国の遊愁館には、花嫁人形が沢山奉納されている。後々の祭が途絶えるのを憂いて、先祖代々の墓とは別に護国に奉じて散華した者を祭ったのだろう。墓誌には、せめて彼の生きた証を残そうと出生から戦死に至る事柄を連綿と書き連ねている。

悲しい事に、二等兵が二階級特進して陸軍伍長になった事まで記している。以前、薬師寺の高田好胤管長が「近くの先祖は仏で、遠い昔の先祖は神様で良いのではありませんか」と言う事を関西弁で話されていたが、戦没者は最早、護国に奉じた悠久の神々の一柱である。毎年の戦没者慰霊祭で一柱 一柱と御魂を数える数え方にも良く現れている。靖国を語る時、国民の心に秘められている感情と言おうか情緒と言おうか心情に対する理解が有って然るべきである。さらに、団体さんの中にこういう人がいた。戦時、ご本人は、国内最強と謳われた仙台第二師団に所属し、後に「餓島」と言われたガタルカナルを転戦し三万の師団の内の二万名の同胞を失ったと言う。しかし、イラクのサマーワに「栄光の第二師団」を再び平和維持軍として派遣してくれた事を素直に喜んでいた。靖国とは、この様な人達の心の墓標であり、心の依代なのである。  

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“空の神兵”のこと

                     2006/10/31 11:23

平成18年8月末、作曲家の高木東六さんが、百二歳の天寿を全うして亡くなられた。戦争直後、大ヒットしたあの“水色のワルツ”を作ったあの作曲家である。ことし、甲子園球児の“水色のハンカチ”が有名になったが「水色のワルツ」にも“水色のハンカチ”が出てくる。

「君に会ううれしさの  胸に深く “水色のハンカチ”を ひそめる習慣(ならわし)が   いつの間にか身に沁みたのよ   涙のあとをそっと 隠したいのよ 」という歌詞である。  

私自身にとっては、終戦から高度成長にむかう時に聞いた懐かしいメロディーでもある。たぶん、テレビジョンの試験放送のため全国を回ったのだろう,我が田舎町にも二葉あき子の“水色のワルツ”の歌声を乗せた汽車がきた。列車をステージにして、テレビ映像を他の車両で見る方式だった。今でも“水色のワルツ”のメロディーと歌詞とあの歌声は覚えている。あれがテレビジョンを見た始めであり、テレビ時代の幕開けを告げる歌でもあった。

そして、高木東六の残した名曲といったら、なんといっても陸軍落下傘部隊のパレンバン攻略を歌った昭和17年の「空の神兵」であろう。今でも習志野にある陸上自衛隊第一空挺団ではこの「空の神兵」が愛唱歌となっているそうだ。空挺団にかつて所属していた若者は「空の神兵」の軍歌とは思えない明るさとワルツのリズムが好きでよく口ずさむといっていた。そして、この“空の神兵”は今はインドネシア国歌として残っているが、昔の人間なら誰も知っているのにこの事には誰もふれることがない。昭和30年代、大宅壮一が彼のライフワークとして書き始めて完結を見ずに終わった名著「炎は流れる」のなかで彼はそのことを書いている。彼自身も海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属され、「戦友別盃の歌」で有名な詩人大木惇夫、漫画家横山隆一らとともに従軍し、敵前上陸のとき艦船が撃沈され漂流したという経験をしている人の話である。一度「インドネシア・ラヤ」を聞いてみると「空の神兵」がベースになっていることが分かるはずです。 高木東六の訃報を報ずるニュースで「空の神兵」が流されることがなかったのは残念である。
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「トルコ国民は決して日本への恩を忘れない」

FI1157084650472t_0E-thumbnail2.jpg「一月十二日、トルコ訪問中の小泉首相は、20年前のイラン・イラク戦争の最中にテヘランに取り残された日本人216人を救出してくれたトルコ航空オズデミル元機長(75)と会い、感謝の意を伝えた」と新聞は報じている。事の顛末は、今から105年前の明治23年に始まる。当時トルコは、オスマン・トルコ帝国の時代である。トルコ皇帝アブドル・ハミトは、新生日本に対して軍艦「エルトゥールル」でオスマン提督と使節団650人を派遣した。だが、帰路に紀州和歌山の串本沖で沈没してしまう。この時、串本の住民は,勇敢に暴風雨をついて60mの断崖をよじ登り、ひとり一人背負って救出した。この時、手厚い救護で69人が救出された。日本側は、特別に巡洋艦を仕立ててトルコまで御遺体も丁重に送り届けた。この両国の友好を象徴する出来事はトルコの小学校の歴史教科書にも書かれていると言う。トルコ政府は「トルコ国民は決して日本への恩を忘れない」という。「105年前のお礼です。」という言葉が嬉しいではないか。

この事は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも記述されている。この著書は「坂の上の雲」を目指した近代国家の息吹を伝えてくれる。世界の近現代史は、民族の独立自尊をかけて白人社会に敢然と立ち向かった日露の決戦に始まると言っても過言ではない。20世紀が終わる年の1999年12月、世界中の有識者に対する「20世紀の重大事件」のアンケートでアジア・アフリカ諸国で「日露戦争」を挙げる人が多い中、我国の緒方貞子氏は、「日露戦争」を挙げずに白人ヨーロッパの兄弟喧嘩の如き「第一次大戦」を挙げていたのには違和感を感じたと同時に残念でならない。国連に行っていると自分も白人のつもりなのかも知れないが、それでいいのだろうか。

来年からNHKは「坂の上の雲」を大河ドラマにするそうだが、本来司馬遼太郎は、「坂の上の雲」だけは映像化させない、と言っていた。映像では単なる戦争映画になってしまう恐れが有るからである。私も全く同感である。世界中の新聞でも珍しい事だが、産経新聞は、数年前“いま読み返す 坂の上の雲”として「坂の上の雲」を再度連載した。1回目の連載の時に下高原健二の挿絵を切りぬこうと思ったのだが切り抜きそびれた。そこで、この2回目の連載の時には、心してシッカリと1296枚に及ぶ挿絵を切り抜いてある。この挿絵で今「瓦版 坂の上の雲」を作っているところだ。1296枚の挿絵にコメントを付けてお伝えします。この紙芝居を使って子供達にも近代日本の建設に携った人々の物語を伝えて頂きたいと思っている。

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地理は社会の基礎である

                   2006/10/30 06:10

或る新聞の就任談話の囲み記事を目にして、仲間内で話題になった事がある。その検事は、誰も自白に追い込めなかった容疑者を“落とした事”が、かなり自慢らしい。部下にもマスコミにも、一つ話の様に常に話していたという。「貴方は、本当に其の様な事をなさったのですか?」と言ったら、容疑者がスラスラと自白を始めた、そうだ。皆は「そんな馬鹿な話が有るものか」と一様に同じ反応を示す。その様な慇懃無礼で増上慢な言われ方をして、いい大人が舌先三寸の言葉に釣られる程ウブではない。裏をかえせば、「私ほどのエリートの人間」が「お前の様な犯罪者」に「その様な事をなさったのですか?」と敬語まで使って話かけてやってるという、人を見下した物言いである。これが“エリート”の思考方法かと感心した。こんな馬鹿な話をするエリートもエリートなら、記事にする記者も記者だ。検事総長の就任談話だそうだ。貴方達の頭は“ダイジョウブ デスカ?”と言いたくもなる。 

さて、話と言うのは、これからである。「ところで、貴方は何と言われたら吐くか?」と話題が続く。よく、刑事ドラマの取調室で「お前もそろそろ吐いて楽になった方が良いぞ」と言う。これは、確かに納得がいく。大抵の人は、日常の仕事や家庭内や夫婦間で経験済の事と思う。一つの嘘を隠す為、更なる嘘で固めると、とにかく辻褄がつかなくなってしまうものだ。吐いた方が楽なのかもしれない。知的能力が高ければ高いほど、話の食い違いに耐えられないそうだ。吐くまで三日とか言われている。詐欺師は、この食い違いに耐える特殊な能力が有るのだろう。次ぎに、「カツ丼でも食うか」と続き、食後に「タバコ吸うか」と追討をかける。極めつけは「お前にも親兄弟がいるだろう」と情に訴える。まあ、こんなパターンが、毎日テレビに流れる。さて、こんな状況に置かれたなら「どんな話で落ちる」か、と言う事になった。

「道徳かね」「宗教かね」「故事かね」「趣味かね」「スポーツかね」「映画かね」と、いろいろ出た。そして、行き着いた先は、自分の出身地の話題ではないだろうか、ということになった。自分の出身地のみならず父母の出身地にも愛着があるものだ。古里の山川草木、風景、立地、神社仏閣、御神木、湖沼,言葉の訛、土地の言い伝え、神話、郷土の偉人、名産工芸などを話の中に共通の話題として出されると、身も世も無く舞いあがってしまうに違いない。黙秘など出来はしない。自分を知っている知己である。それほどまで、故郷は掛替えがない。だから己が故郷を、悪様に言う奴は許せないと同時に信用が出来ない。

60年安保から70年安保の頃、当時アクティブの連中に郷土の偉人の話をしたことがある。その時の反応を今でも忘れない。「それって、日本人でしょう」と言う、インターナショナル共産革命を標榜する彼等にとって偉人とは、トロツキーとかチェ・ゲバラの様な者を言うらしい。古里も日本もない根無草達に愕然としたものである。ところが、ハードボイルド作家,北方謙三の「三国志」を読んで面白い事に気付いた。もと、氏は中央大学ブント(共産主義者同盟)の突撃隊の中隊長だったそうだが、著作の中で劉備玄徳に「漢の帝室が100年経てば100年尊く、200年たてば200年尊い,400年経てば最早、触れるのも憚れるほど尊くなる」と言わせている。さすれば、氏は、神代より2665年続く我が国体をかけがえのないものと、言外に言っていると理解したが、どうだろう。

私が子供の頃「人文地理」という科目があった。中学一年の最初の授業で教師は第一声「鶴は、100回の糞である」と。皆キョトンとした。「鶴?」「100回?」「糞?」まさにハンジ物である。先生は、海軍兵学校から戦艦大和の乗組員になり声帯を負傷し言語が不明瞭だったのだ。翻訳すると「鶴は地理」「100回は社会」「糞は基礎」である。「地理は、社会の基礎である」と言う事だ。幾つになっても、故郷があるのは有り難いものである。室生犀星の「古里は 遠きにありて 思うもの そして悲しく うたうもの」も石川啄木の「石をもて 追わるるごとく ふるさとを いでし悲しみ 消ゆる時なし」も共に好きな詩である。         

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「百人一首」のこと

                     2006/10/30 06:10  

平成18年の新年を迎えたと思ったら、早くも3が日を過ぎ、大方は仕事始めで本格始動である。当今、いわゆる年のせいか時間の経過が年年歳歳はやく感じられる。初春の願いは気宇壮大な夢を望みたいものだが「世の中は、棒ほど願って針ほど叶う」と諺に言われる通り、なかなか願い通りには行かないものだ。だが、せめて年の初め位は大きな願いを立てて見たいものである。巣鴨のとげぬき地蔵尊にも連日多数の人達が何かしらの願いを込めて参詣に訪れている。毎年、新年を迎える度に今年こそと、思い続けているささやかと言おうか、大望と言おうか一つの願い事がある。

もう、早いもので15年前になるが、私が50才に成った年に、何かの本で福沢諭吉が脳溢血で得意の英語をことごとく忘れてしまい、50才になってから再びABCから学び始め遂に完全に習得したと言う事を知った。ならば私も彼と同じ50才、何かやって見ようと思い立ち、4516首から成る万葉集を全て記憶しようと思い立った。始めは、1日1首憶えれば12年半、1日3首で4年2ケ月、1日10首で1年半で終わる筈だったが、なかなかどうして15年経ったが凡人の悲しさゆえ、未だ成らず万葉集のあちらを撫でたりこちらを撫でたり収拾がつかない状態である。新年の度に大伴家持の万葉集4516番目の新年の歌「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重し吉事(いやしけよごと)」から始めてる。今年も雪の降り積もる様に良い事が沢山有る様にと。今から1247年前に作られた国民歌集の万葉集は、天皇から防人と言う兵士から、さらに読み人知らずと言う一般庶民までの和歌が収められている。

渡辺昇一の説の如く「日本人は、法の前に平等とか、神の前に平等とか、憲法の前に平等とか言う事ではなく和歌の前に平等」なのである。正月の宮中歌会始に中学生でも参加出来るほど日本は世界でも稀有な文化国家なのである。また、当時の言葉が殆ど今も生き続けているのは、嬉しくもあり有難い事である。私が50才になってから万葉集を学び始めようと思ったのには、一つの理由がある。まずは、人間は年令と共に仕事以外で出来る事がかなり狭まる。「君は仕事以外に何が出来る?」と言う質問はかなり応える。さて、自分で仕事以外に何が出来るかと考えた時、咄嗟に和歌を学びたいと思った。

何か事を始める時、小さくとも何か入口が欲しいものである。私の場合、今思うと有り難い事に、中学1年生の冬休にムリムリ覚えさせられた「百人一首」があった。久々に「百人一首」を取り出して見ると中学1年生の時に覚えた和歌100首が悉く甦って来る。あの時、国語教師のI先生は、「将来必ず役に立つ」と強引に「とにかく一字一句違えず覚える事」を指示した。I先生は、いわゆる大酒呑で師範学校出の為、父兄にはあまり評判の良くない教師だった。若手の新制大学出の教師に見下されるので大卒の資格を得る為に國學院大学の通信教育を受けていた。そんな教師だったが生徒達には、すこぶる評判の良い教師だった。師範学校出だったが、「先生にデモなろうかとか先生にシカなれない」と言う「デモシカ先生」とは、雲泥の差だった。

今でも、同窓の友や兄弟姉妹で中学校の先生で誰が一番良い教師かと問うと間違い無く「I先生」と答える。「百人一首」を覚えるのは、一人では出来ないものだ。毎日「百人一首」を抱えて友人の家を廻り歩く。読み手がいないと出来ない。友人の母や姉に読んで貰うしかない。流れる様なメロディーとも言える節回しが今でも鮮明に甦る。たぶん、教育とは、こんなものではないだろうか。その頑固な先生は、或る大雪の日,酒を飲み泥酔し道に寝ていて車に轢かれて亡くなられた。65才になった今でも一つの道筋を示してくれた「偉大なる教師」として感謝している。この正月、「百人一首」を取り出してみては、いかがだろうか。きっと、「将来役に立ちますよ」

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平成の野見宿禰(のみのすくね)

                   2006/10/29 08:00

以前、秋の観光地として有名な水上温泉に行って面白い経験をした。一泊9800円という価格の安さと、68種類のバイキング料理と言う触込みに引かれて宿泊した。どうして、こんな価格でやって行けるのか不思議な位だが、客にとっては有り難い話である。ホテル側では人件費の削減と経営合理化のためバイキング方式を採っているのだろうが、客にとっても部屋食に冷えた茶碗蒸やら、少し乾いた刺身とか、幾らか湿った天婦羅やカリッとしないエビフライなどを並べられるより、よっぽどましだ。自分の好みの物しか取って来ていないから食後のテーブルは綺麗なものだ。平らげた感覚が結構リッチだ。

面白いと言うのはバイキング会場の料理人やフロアーの男女従業員の名札だ。金 劉 李 余 呂 林 趙 呉 まだまだ覚えきれない位の中国名だらけだ。これだけ沢山の中国人を見たのは始めてである。皆、中国本土からホテル研修のため来たそうだ。中国人と言うと、町の中華料理屋でドンブリの縁を持ち、御丁寧にツユの中に親指まで入れて目の前にドスンと置く様な人が多かった。しかし、今回お目にかかった人達は、一寸違う。極めて折目正しく礼儀も行き届いている。笑顔を絶やさぬ身のこなしや、質問に対する受け答えなど、なかなかなものである。特に感じたのは、彼等の視線の柔らかさだ。心の動きは、とかく目に出るものだが“トゲトゲしさ”のない温和な視線が印象に残った。王陽明の言う“事上磨錬”とは、こういう事を言っているのだろう。まさに、仕事が人を作るのである。ホテル側の受け入れ指導体制にも感じ入った次第である。

台湾の金美齢さんが以前インタビューに答えて「日本語で話をすると心が和む」と言う、そして「中国語で話をすると自己主張をしなければならないので、心が“イラダツ”と話していた。拓殖大教授の呉善花さんは韓国に葬儀で帰国した折、大声で泣き喚かなかったら知人達に「日本に行って薄情になった」と言われたという。彼女は、日本でジット耐える事を覚えたという。

“耐えると”いうと、曙の引退の弁が印象に残っている。「日本に来て学んだ事は“努力する”という事と“耐える”という事だという。久しく忘れられていた 勤勉 忍耐 と言う“徳目”を思い起させてくれる発言だった。それ以後、曙太郎がいかに無様に負けようと応援している。九州場所は、朝青龍の七連覇という大記録達成で終わった。とかく品格に問題有りと言われた25才のモンゴル青年は、千秋楽に「大きな山を見ず、足元の小石を見て・・あす勝つこと」と答えている。土俵が作り上げた平成の大横綱“日の下開山”の誕生である。驚いた事に彼は、日本語の質問に対し日本語で考え日本語で答えているのだ。伝統を重んずる角界には、何か日本語学校のノーハウが有るのではなかろうか。朝青龍は今やどこから見ても日本人以上に日本人である。

日本書紀に記されている相撲の始まりもこんな具合だったのではないだろうか。今でも奈良の當麻町(たいま)にその名を留める大和代表の当麻蹶速(たいまのけはや)と出雲代表の野見宿禰(のみのすくね)の戦いを以って相撲は始まる。だが、日本書紀の記述は、当時としては同化間も無い異邦人の野見宿禰に肩入れしている。野見宿禰は見事に当麻蹶速を倒し日の下開山となる。さらに逸話として殉死を無くすため埴輪を考案し土師氏の祖先となったと伝えられている。

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国が認めた“立派”な年寄り

                    2006/10/28 07:00

先週の日曜日、とげぬき地蔵の境内からロックンロールのリズムが聞こえて来た。今まで、この町では聞きなれぬ音楽である。演歌ばかりのイベントが多かった巣鴨では、異質で場違いに思える音楽である。しかし、エルビス・プレスリーの“ダイアナ”やロック調の“スワニーリバー”が聞こえて来ると、なぜか気になる。誘われる様に境内に向かうと、若者達が一生懸命にロックを奏でている。場違いと思いきや、皆んな“懐かしい、懐かしい”といって聞き入っている。場違いなどではない、若者達の見立の通り、これからの年寄達の“思い出”は、ジャズやロックなのだ。

地面に置いたギターケースの中は、千円札で一杯になっている。完全にうけた。この国では、65才をもって国勢調査上“老人”というそうだ。今年の8月で老人の人口が2500万人になったと大騒ぎしている。一口に2500万人と言うが、大変な数である。2500万人と言うと世界でも、チョットした大国である。カナダ3000万 イラク2000万 オランダ1600万 ベルギー1000万 台湾2200万 北朝鮮2100万 スペインとポルトガルを合わせて2500万 さらに北欧3国を合わせた数よりも多い。これだけでも、押しも押されぬ大国だ。これからの老人は、世間が“老人、老人”と言うほど“おいぼれ”てはいない。この頃では、腰の曲がっている人を見つけるのは難しいほどだ。特に、巣鴨に来る人達は元気だ。年令の7掛が今の老人年令であると言えよう。

以前も書いたが、105才で86才の娘さんの買物をする人さえいるのだ。私も、今年で65才になり“国が認めた立派な年寄”ということになる。そして、さらにこれから“団塊の世代”が続いて来る。2007年問題と言うらしい。でも、「御心配御無用」 これからの老人は、平和な時代、高度成長の時代、大量消費の時代を、この国始まって以来始めて経験し、作り出し、さらに乗り越えてきた世代である。この世代の特徴は、まずラジオ世代だということが言えよう。東京オリンピックの昭和39年までラジオからは、アメリカン・ポップスが流れていた。

その頃、ラジオで演歌を聞いた記憶はない。フランク・シナトラ ペギー・リー コニー・フランシス ブラザースフォー ナットキングコール などだ。カラオケではなく、ともしび 山小屋 カチューシャなどの“歌声喫茶”でのフォークソングが全盛だった。ソシャルダンスが大流行ブルース ワルツ タンゴ ルンバ ジルバ チャチャ と来てドドンパあたりからダンスは崩壊してきて、モンキー、 ゴーゴーとなる。アメリカ映画が、彼の国の文明文化を伝える。ヘップバーンカット ポニーテール ミニスカート アイビールックと全ての物を好奇心を持って採り入れる。

米国のサムエルソンが“個人の美徳は、国家の悪徳である”と言う。酒も飲まず、タバコも吸わず、バクチも女性に興味も示さず質素倹約をむねとする美徳は、国家経済に対する悪徳と言うことである。「消費は美徳」と車社会を到来させ高度成長を遂げる。この体験を持った世代が一大消費集団として市場経済に参入するのである。50兆円分もあるそうだ。さらに、この世代は世界史上の奇跡とさえ言われた経済の高度成長を支えた一大シンクタンクでもある。知識と技術を朽ち果てさせるのは国家の大損失だ。

高齢者を“ボランティア”としてではなく、有給でしかるべき所得を発生させる道を付けるべきである。早い話が“人に物を頼んだら金を払え”という自由主義経済の原点に立つべきである。知識の伝承や、技術の伝授を行うNPO法人の設立によって可能と考えている。市民運動が先細るのはなんでもかんでも“タダ”でやろうとするからである。300年前スイフトが“ガリバー旅行記”の中でで予見したような、死にきれずに老醜をさらす“老人国”に成らぬためにも、自分が持てる物や知識を生かして社会に“something”を残すのもひとつの道と思えるが、どうだろう。

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“don`t be sneak” 卑怯者(スニーカー)になるな!!

                      2006/10/27 07:00

丁度三年前になるが、慶應大学の学園祭に招かれた台湾の李登輝さんが、中国の恫喝と偏向なマスコミ各社と、外務省の独立国と思えぬほどの拙劣な外交姿勢のために入国出来なかった事件があった。先日の新聞で李登輝さんは、来年の桜の花の咲く四月頃に芭蕉の旅した“奥の細道”を旅したいという意向を伝えてきているという。日台交流のノービザ時代でもあり、ぜひ、実現してほしいものである。李登輝さんは、ご承知のとうり、台湾を民主国家に導いた元の台湾総統である。御自身でも「私は21歳まで日本人であった」と言っている通り、彼は、京都大学の農学部から学徒出陣で日本の砲兵少尉として大東亜戦争に出征している。

ここの所は、司馬遼太郎の「台湾紀行」に詳しく述べられている。大東亜戦争の呼称は、アメリカが嫌って使わせなかったが「今次大戦を大東亜戦争と称する」と国の決定したレッキとした歴史的呼称であり最早、誰はばかることもなかろう。李登輝さんが、東ティモールに進駐した時、現地はオランダによって400年の長きにわたり植民地にされ、反乱を防ぐため木片の農具で耕作させられていたと言う。オランダ軍を駆逐してから、現地の人達にクワやカマなどを与えて兵隊も一緒に耕作に従事したという。「台湾紀行」の中で司馬遼太郎は、李登輝さんが対談中、昔を思い出し昔の学生言葉で話したと書いている。たぶん「オマエ、ネェー」とか言ったのではないのだろうか。

その李登輝さんは、慶大学園祭で、戦後の日本人が失ってしまった理念や道徳規範を、日本の若者達に取り戻してほしいという思で講演の依頼を承諾されたそうだ。そこで、台湾で今でも、最も愛されている“八田與一”を語ることで伝えたかったと言う。幻の講演原稿“日本精神を誇りに生きよ”の大意はこうだ。八田與一が、24才で台湾に赴任した頃、現地はマラリアや風土病が、蔓延していたという。今では2200万人の人口を誇る台湾の当時の人口は300万人にすぎなかった。八田與一は、食料の確保と衛生の確保さらには、農民たちの生活基盤を整える事を目指して、1億5000万トンの貯水量を持つ巨大ダムを建設し、さらに、地球を半周するほどの1万6000キロにも及ぶ水路を建設した。そして、15万町歩という広大で肥沃な穀倉地帯を作り上げ60万人の農民の生活と生計を確保した。八田與一は、ダムと水路の建設だけに留まらず、設備の運用と水利技術の指導や農作物の輪作方法などを率先範疇し民族の分け隔てなく“日本精神”を以って行動する。

八田與一が、身を以って示した“公に奉ずる義の心”の故に今でも台湾人の心に生き続けているという。八田與一は、24才から56才の時に魚雷攻撃による死に至るまで台湾を愛し台湾一筋の人生を送る。敗戦後八田與一夫人は、台湾を去るに忍びず、夫の造ったダムの放水口に身投じ夫與一の後を追う。御年46才。李登輝さんは“武士道解題”という自著で新渡戸稲造の“武士道”の解説も著している。武士道に関しては、先ごろテレビで元自衛隊幕僚で現在は帝京大教授の志方俊行氏の語っていた“まとめ”が理解しやすい。

“武士道”とは、せんじつめると 1、弱い者を虐めるな  2、強い者に立ち向かえ 3、先に刀を抜くな 4、卑怯な振る舞いをするな 5、己が立ち去った後に花の香が残る様にしろ  きわめて 解りやいではないか。李登輝さんの幻の講演原稿“日本精神を誇りに生きよ”は、我が地元の巣鴨中学校巣鴨高等学校の全生徒が“日本精神を誇りに生きよ”をテキストにして学習しているときく。

この頃よく、“コンプライアンス”とか“遵法”とか“違法合法”とか、果ては、ホワイトナイトとかおよそ実の無い空虚な言葉が飛び交っているが、これからの“行動基準”は“卑怯”というキーワードではなかろうか。新渡戸稲造は、著書の中で“don`t be sneak”といっている。コソコソ歩く卑怯な“スニーカー”になるなということである。

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洋犬 “カメ”

                     2006/10/26 08:00

早朝から、巣鴨のとげぬき地蔵の境内には犬を散歩させる仲間達が、沢山集まる。この頃、特に気付くのは以前と打って変わって和名の犬が急に増えたことだ。数年前までは、「名犬ラッシー」「101匹わんちゃん」「わんわん物語」などの影響なのか“カタカナ犬”が多かった。知り合いの犬でも、チャッピー、ラッシー、ルル、ジョン、グリム、ラッキー、レモン、ミルク、クッキー、ショコラ、ミックなどだ。ところが、近頃、ごん、ごん太、ごん助、太郎、花子、次郎、小太郎、小次郎、桃子、桃ちゃん、もこ、健太などの“和名犬”が増えだした。はやりとか流行というより、日本語への回帰現象ではないだろうか。 

数年前、明治生れの父が、95歳で死んだ。その通夜の席で、いままで飼ってた犬に話が及んだことがある。飼い犬は、年代の区分には打ってつけで、過去の記憶がよみがえってくるる。家族だった動物との触れ合いの話は、なかなか尽きない。我が家の初代は、ちん系統の“ポチ”である。山本夏彦の随筆で知ったのだが、明治時代の小学校の翻訳教科書に「ポチ来い、ポチ来いパンやるぞ」というのから日本中に広がったという。ポチは、チビを意味するプチの訛りである。「ポチ」は、昭和20年代全国何処にでもいた。今は、テレビ番組の「ポチたま」に、その名を留めているだけである。

昭和25年朝鮮戦争が勃発した頃、狂犬病がまだあったので野犬狩と言う捕獲殺処分があった。通称「犬殺し」といった。針金一本でどんな犬でも見事に捕らえる。寒い冬の日、大々的な野犬狩が行われた。一匹の小型の柴犬が、追われている。追われ追われて土管の中に潜り込んでいる。近所の子供達で、なんとか逃がそうと一生懸命に誘導する。いずれ、捕まれば針金の餌食である。「誰かの家の飼い犬と言う事にしよう」と子供の仲間内で決めたが結局、私の家の飼犬ということになった。当時、アメリカ映画が全盛でグレン・フォード主演の「ロンリー・マン“孤独の人”」という映画がヒットしていた。それで、この捨犬の子の名前は「ロンリー」となった。なんとか、臆病な性格を直してやろうとしたが、犬でも一時の恐怖心を払拭するのは、なかなか難しいらしい。最後まで、家族以外になつかなかった。今でも、哀れな“捨犬ロンリー”を思い出す。

昭和27年、日本は占領を解除され再び独立国となる。二葉あき子の「水色のワルツ」の歌声を乗せた汽車がきた。列車をステージにして、テレビ映像を他の車両でみる。たぶん、あの汽車は、全国を回ったと思う。それが、テレビの幕開けである。犬の名は、あっちにも、こっちにもジョンがいた。「テレビ商会」のジョンは、うってつけの名で良い宣伝にもなった。そして、我が家もご多分にもれずジョンがいた。

つぎに知り合った犬は、街の映画館の前に何時も寝そべっている「子牛の様な」という形容がピッタリの土佐犬である。名前を知らないので「クマ」と勝手に名付けた。首輪も綱も無い。ということは野良だ。腹が減っているので弁当の残りを喜んで食べる。とてつもなく、大型犬なので腹の足しになったかどうかは分からない。そして、日課の如く後を追って家まで付いて来る。そして、私共家族にとって忘れられない出来事が起こる。

十二月の大雪の降る真夜中「ヒーヒー ヒーヒー」と何かを訴える様な犬の鳴声がする。父母と兄弟姉妹7名全員が起き出して表を見ると、あの土佐犬が来ている。訴えているのは、お産が始まるという事だった。頼られると、なぜか俄然と力がわく。たまたま家族全員が動物好きだったので話は早い。家で安全に産ませる事にして、大車輪で毛布、タオル、ボロ布の準備をして、お湯を沸かし湯タンポを沢山つくる。そして、丈夫な3匹の子犬が無事に産まれ、我が家の新しい家族になった。
そして二ヶ月,子犬達の手足も太く頑丈になりいだした頃、一見してその筋と分かる風体をした男がやって来て「ウチの犬が、お世話になっているそうで」といって、引取りに来た。丁度、可愛くなったばかりで、手放したくなかったっが、事情をきくと仕方あるまい。その頃、彼は刑務所に入っていた。一匹残して貰った、それが母犬の名を継いだ「クマ」である。つれて帰った2匹は、闘犬として一匹三万円で売却したと聞いた。学卒の初任給が月8000円の時なので一匹50万円といったところだろう。

そして、「名犬ラッシー」がテレビで始まると、我が家にもシェパードのラッシーが家族となる。そして、真黒で小型の雑種犬の「ラッキー」も家族として仲間入りしてきた。名は体を現すと言うが、この子は本当に「幸運」な犬だった。水害で一晩水に浸かっても命をまつとうし、二四才まで長命を保った。私が17才の時、家に来て、41才の時まで自宅の見回りの日課をはたして天寿をまっとうした。彼には、誰が教えたわけでもないのに生来の特殊な能力があった。道端に火の点いたタバコが捨てられていると、飛んでいき、まず火を手で叩く、そして、揉み消す最後に胸でタバコがバラバラになるまで消してしまう。大変なのは、お盆の時だ。お盆様の火さえ消そうとする。その時ばかりは、繋ぐしか方法がない。

これで、我が家歴代の家族犬は全てと思いきや、一番上の大正生れの姉が「そう言えば、もう一匹“カメ”という名の犬がいた」と言う。姉だけが知っている犬だ。カメとは、変な名前だと思うだろうが、“カメ”はアチコチにいた。北海道の函館の外国商館が“カメ”の名前の出所らしい。パラソルをさしてシャナリシャナリと洋犬の散歩をしているご婦人が、犬を“COME COME”と呼ぶらしい。“カメ”は洋犬のモダンな名前として流行した。まさか、我が家にも、その歴史的“カメ”が居ようとは思わなかった。通夜の席にも出てきた犬達は、なかなか親孝行な大切な家族であった。

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“松島交配”という白菜

                     2006/10/25 13:4   

この頃、花屋の店先は耳慣れない外来の草花だらけになってしまった。カランコエ、スパティフィラム、ペチュニア、クロッカス、ドラセナ・コンシナ、サルビアなどとにぎやかだ。カタカナで表示しているので、外来種と思いきや、アップル、チェリー、ローズはともかくとして、もともと日本名のある草花が進駐軍の如く“カタカナ”名になって納まっている。杏がアプリコット、けしの花がポピー“てっせん”がクレマチス、三色すみれがパンジィー、牡丹がピオニー、椿がカメリア、すぐりがカシス、藤がウィステリアだという。昨年まで、つつじはアゼリアだったが今年からアザレアと言うのだそうだ。お笑いは、日本原種でシーボルトが愛人のお滝さんの名(オタクサン)を冠して西洋に紹介したという「あじさい」が“ハイドレンジ”と言う名で里帰りしている。怒涛の様に押し寄せる外来の文化、文明、思想、科学技術、医学、文学、さらには草花の名前まで翻訳し尽くした明治の時代の先人の努力にはまさに脱帽である。

forget-me-notという花に“忘れな草”という美しい名を付けてくれた人は誰か分からないが有難い事である。“我な忘れそ”が組込まれているのがいい。忘れな草は、五月頃「都忘れ」と時を同じくして共に咲く。明治の終わり頃、東京市長尾崎行雄が友好親善を願いアメリカに贈った桜のお返しに貰った dog-wood(犬の木)と呼ばれる木に,花水木(はなみずき)という綺麗な名前を付けたのは流石である。花水木は、巣鴨でも街路樹として植えられている。花も,紅葉する葉も,実も,季節の移り変わりを告げる樹木として愛されている。ポトマック河畔に咲く桜が,染井吉野発祥の地である巣鴨から行ったと思うと感慨ひとしおである。いまひとつ、毎日水遣りしているのだが、雑草の様に勢い良く生茂るアフリカ原産の花で、和名を「折鶴らん」という草花がある。見る度に感心するのは、スラリと伸びた葉先がどう見ても折紙細工の鶴のシッポである。また、葉先の折れた所は、まさしく鶴の嘴そっくりであり、見事な命名だ。横文字だからと言って、モダンとも立派とも品が良いとも言えない。

「菜の花」を英語でrape-flower(強姦花)と言うらしい。なんとも無粋で品のない命名ではないか。菜の花が哀れである。巣鴨にも通称ヤッチャバと言いう 中央卸売市場がある。秋風と共に鍋の時期になると、白菜が大量に入荷して来る。その中にこの頃、「松島交配」と書かれた箱が多くなってきた。司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中に書いているが、もともと白菜は、日露戦争で大陸に出兵した農村出身の兵士達が、大玉に結球した山東菜の見事さに驚き現地で種を貰い日本に持ち帰った物だと言う事だ。しかし、1年目は収穫出来るが、どうした事か2年目は、菜の花に化けてしまう。菜の花の花粉の方が優勢なのだ。毎年種を取り寄せるが上手くいかない。蝶などの交配を助ける昆虫は、海の上を2Km以上を飛べないそうだ。そこで、松島に無数にある島々で純粋交配したのが今我々が食べている白菜と言う事になる。現在、私達が食べている食物の一つ一つにそれぞれ特有の歴史が有る。

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“企業の森”はどこにある?

                       2006/10/24 07:00

巣鴨のとげぬき地蔵通りが「お婆ちゃんの原宿」と言われる様になってから久しい。だが、このところ、幾分町の雰囲気が様変わりしてきている。男性が、多くなってきているのだ。「お爺さん」と迄はいかない。「年寄」とか「高齢者」とかの範疇にも入る様な人達でもない。まだまだ、現役で活躍出来る様な人達である。地蔵前の広場のベンチでは、いろいろな話が、交わされている。話の行きつく先は、「故郷の話」と「かつての会社」の話となる。無事に定年退職した人は、恵まれた人である。外来語とは、便利なもので「首切り」「人員整理」「馘首」と言う事を、事も無げにアッケラカンと「リストラ」と言える。「リストラに合いましてネエ」と、あたかも地震とか台風などの天災にでも合った様な話し方をする。心の中には、忸怩たるものがあるはずである。

だが、自分をリストラした会社を悪く言う人は殆どいない。彼等にとって、「会社」は、心の古里であり、青春の思い出であり、己の誇りでもある。「どちらにお勤めでした?」と聞くと嬉々として顔を紅潮させ話し出す。このあいだ、こう言う話を聞いた。「うちの会社は、戦前、北朝鮮の鴨緑江に豊水ダムという黒四ダムの3倍の規模で、当時は世界第2位を誇る100万KWの出力を持つ大発電所を建設した会社」だという。戦前は、朝鮮と満州の重化学工業の電力を賄い、戦後は北朝鮮の電力を賄ったそうだ。電力だけでなく硫安などの科学肥料など大量に作れるあれだけの設備を残してきたのに、今なんで肥料が足りないのかと不審がる。会社の95%の資産を朝鮮に残して日本に引き上げた。水俣、延岡に残った5%の資産を元にナベやカマを作ってやり抜いたと言う。イギリスのダウ・ケミカル、アメリカのデュポンと並び称された日本窒素である。その会社からダム建設で東南アジアや世界中で活躍する日本工営、科学技術の最先端を行く旭化成、積水化学、住宅建設の積水ハウスなどの企業へと脈々と続いているとの事であった。

確か45年ほど前、当時高度成長に入ったばかりの頃に毎日新聞は、羽間乙彦による「企業の森」の連載を始めた。前述の野口遵の率いる日本窒素、鮎川義介が全社まとめて海を渡って満州重工業とした日産グループ、地域経済の宇部興産、産業の基礎である鉄の日鉄釜石など日本経済を牽引した先達企業の物語は、今で言う処の「プロジェクトX」である。毎日新聞は、このおかげで、500万部以上の発行部数になったと言われたほどである。久々に再読しようと図書館にいった。今は、なかなか便利になり小さな区立の巣鴨図書館からでも中央図書館の書籍を借りることが出来る。ところが、不思議なことに東京23区にある245の区立図書館にも日比谷・多摩・中央の都立図書館にもない。あるのは、国会図書館だけだと言う。そんな馬鹿な!!!500万部も発行していた毎日新聞が連載し、昭和40年に新聞社から発刊された本が見当らないとは摩訶不思議だ。

ネットで見つけるが、どの検索エンジンにもかからない。あれほど多くの人に読まれた本が忽然と存在しなくなっている。コンピューターを始めてやっと1年になったばかりなので、見つけ方が悪いのかと思い、パソコンの師匠に頼んで調べてもらったが、やはり無い。古いものは残らないのかと思い、その当時多くの人に読まれた書籍を探してみた。「駅弁大学」とか「一億総白痴化」の名言を残した大宅壮一のライフワーク“明治と昭和の谷間”の大正時代を紀行する「炎は流れる」は、今はe-bookとしても誰でも読むことが出来る。残念な事に彼の知恵者、なにを勘違いしたのか、ダイエットにビフテキとコンニャクという食事を選択をして栄養失調で死んでしまった。だが、彼の残した四冊の「炎は流れる」は、未だに読み続けられている。さらに、林房雄の「大東亜戦争肯定論」も四年前再刊されている。

なのに「企業の森」だけがなぜ見つからないのか。どうも、それは昭和40年の日韓条約に原因がありそうだ。さらに、昭和49年の日中国交回復が、妙な流れを作った様だ。あれ以来、マスコミ各社は、なんでも隠すし、なんでも「ご注進、ご注進」とチクル。日本が朝鮮、中国でなにか良い事をしたと言っただけで何人もの大臣の首が飛んだ。鴨緑江の水豊ダムには、<金日成将軍が建設した>と碑に書かれていると言う事である。あの本が存在しては、「北朝鮮 朝鮮民主主義人民共和国」の逆鱗に触れ都合が悪いのだろうか。二年前、西船橋図書館の女性司書が「気に入らない」と言って100冊余の書籍を燃やしてしまった、「焚書事件」を彷彿させる出来事である。

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It is a pleasure when rising in the morning

200px-Bill_Clinton.jpg                     2006/10/23 11:15

先日、アメリカからの女子留学生が巣鴨に買物に来た。外人の年令は、なかなか分かり難いが多分25、6才だろう。なんと、珍しい事に「味噌漬昆布」を買い求めた。帰国の時の日本土産にするという。在米の邦人が、とても喜んでくれるそうだ。祖父の代から日本とアメリカを行き来していると言う。青森屋の看板を見て“陸奥の国ですね”と、まことに流暢で美しい日本語を話す。これから、日本海側の“出雲の国”を回ってアメリカに帰国するそうだ。彼女は、やっと「遠野物語」の研究を終え、これから「円地文子さん」の研究に取りかかるそうだ。「円地文子さんは、スコシ難しい」と話す。わたしなんぞ、未だに円地文子を一冊も読んだ事もない。なかなか偉いものだ。

「遠野物語」と聞いて、かねがね疑問に思っていた事を彼女が外国人であるのを忘れ、年がいもなく「遠野物語の話の最後に語り部のお婆さんが、“ドットバラエ”とかなんとか言っている様ですが、本当は、何と言っているのですか。」とたずねた。彼女は、即座にあれは「ドット払い」と言っているのだ、と教えてくれた。「もう、話は終わったので全部忘れておしまいなさい」と言っているのだと言う。漫画などで、言葉の“吹出し”を手でかき消してしまう様なものかと思った。「忘れてしまえ」と言われれば「全部覚えておけ」と言われるより忘れ難いものかも知れない。   後で、遠野の学芸員の方に聞いたところ「ドット晴れ」と言っているそうだ。「目出度し目出度し」と言う事らしい。だが、このアメリカのお嬢さんの説もなかなか捨て難い。

いまひとつ 、“外人さん”に教わった事がある。12年前の平成6年天皇皇后両陛下がアメリカを訪問した折の事である。晩餐会の席上、クリントン大統領が、橘曙覧(たちばなのあけみ)の和歌を引用したと言うニュースが、報じられた。タチバナノアケミとは、何者か。とにかく、ビックリした。正岡子規が、源実朝、与謝蕪村と共に絶賛した歌人と言うことである。それが、それが、外国元首の口から出たのは、驚きだけでなく、なににもまして嬉しかった。クリントン 一人の仕業ではあるまい。アメリカでは、ケネディーのほとんどの演説原稿を書いたテッド・ソレンセンの様なスピーチライターが付いているにしても、他国の文化に対する造詣の深さには、感心する。

クリントン大統領は、清貧の人、橘曙覧の「独楽吟」52首の中から,この歌を引用した。

It is a pleasure when rising in the morning I go outside and find a flower that has bloomed that was not there yesterday  
楽しみは 朝起き出でて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時

時あたかも、東京を売ればアメリカ全土が買えるとさえ言われたバブル経済が破綻した直後の事である。曙覧の清貧の心、足るを知る心、小さな幸せの52首は、どれもこれも思い当たることばかりである。独楽吟52首の中の数首を書き添えます。


楽しみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ 頭(かしら)ならべて 物をくふ時   

楽しみは 心にうかぶ はかなごと 思ひつづけて 煙艸(たばこ)すふ時 

楽しみは  あき米櫃(こめびつ)に 米いでき 今一月(ひとつき)は よしといふ時  

楽しみは まれに魚烹(に)て 児等(こら)皆が うましうましと いひて食ふ時        

 楽しみは  銭なくなりて わびをるに 人の来たりて 銭くれし時   

楽しみは  昼寝目ざむる 枕べに ことことと湯の 煮えてある時    

楽しみは  ほしかりし物 銭ぶくろ うちかたぶけて 買いえたる時

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松ぞ雄雄しき 人もかくあれ

                    2006/10/22 14:28

巣鴨を抜ける中仙道沿いに、染井吉野の発祥地である染井墓地がある。広大な広さを持つ墓地である。日本文化を世界に広めた岡倉天心や山田美妙、二葉亭四迷、高村光雲、高村光太郎、芥川龍之介、谷崎潤一郎、津軽の人で親友の甥正岡子規を約束通りその死まで保護し続けた陸喝南、ヘーゲルの弟子で今なお学生の必読書「西洋哲学史要」を残した波多野精一、反骨のジャーナリスト宮武外骨、福沢諭吉の英語教師で英語通訳第一号の森山多吉郎など多士済々の近現代史を作り上げた人々が眠っている。

その中に福岡孝悌のお墓がある。福岡孝悌は、新生日本の基本方針である「五箇条の御誓文」を由利公正と共に起草した事で有名である。今から139年前の明治元年に天紳地祇に誓う型で世界中に発せられた日本の基本姿勢である。「五箇条の御誓文」の起草にまつわる逸話は、司馬遼太郎が、「竜馬が行く」の中でイキイキと書いている。竜馬は、考える。新生日本が、出来あがった時の財政再建を誰に委ねるべきか。越前松平藩に5年間幽閉されている三岡八郎(後の由利公正)に白羽の矢を立てる。一介の浪人竜馬は、勝海舟から松平春嶽宛の1通の紹介状を持ち北陸街道を下る。三岡八郎をもらい下げた竜馬は、三岡と新国家の基本方針を話す。三岡は、それを鼻紙に書き留める。これが、「五箇条の御誓文」の原型である。司馬遼太郎は、「国家成る」の思いを込めて「その日街道は晴れていた。竜馬は行く」と結んでいる。“これで安心”という竜馬の姿が彷彿とする。

これを軸として福岡は、起草する。   1 広く会議を興し万機公論に決すべし   2 上下心を一にして盛んに経綸を行うべし   3 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ 人心をして倦まざらしめん事を要す   4 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし   5 知識を世界に求め大いに皇基を振興すべし この基本方針は、明治二十二年明治憲法が、出来あがるまで国の大原則として、また、現在まで日本のDNAとしてその精神は、受け継がれている。この中で「人心をして倦まざらしめん事を要す」と言う項目は、明治人の優しさと人徳がしのばれる。世界広しと言えども「倦まざらしめん事」を国家目標にしている国は例を見ない。

しかし、バブル崩壊によるリストラに次ぐリストラ、新聞報道マスコミ各社は、「あの会社は、未だリストラさえ成されていない」と冷たく言い放つ。労働組合は、なんの役にも立たない。地蔵さんのベンチに日長一日、為すこともなく座り込む働き盛りの中高年は、「志もとげられず」まさに「倦んでいる」のだ。年間3万人の自殺者さらに30万人にも及ぶ自殺未遂者。国民は「倦んでいる」のである。「仕事がしたい」が唯一の願いだ。終戦直後の元旦に発せられた「新日本建設に関する詔書」のなかに昭和天皇は、冒頭に「五箇条の御誓文」を記載する事を切に望まれたと言われている。詔書は「ここに新年を迎う・・・・・叡旨公明正大また何をか加えん」と結ばれている。詔書を起草した時の首相幣原喜重郎も、なにかの縁か同じく巣鴨の染井の墓地に眠っている。 昭和天皇は、その新年に、次ぎの様な御製を残している。

「降り積もる み雪に耐えて 色かえぬ 松ぞ雄雄しき 人もかくあれ 」

posted by 語り部同人 at 14:33| 語り部倶楽部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎮守の秋祭りも終わった

                     2006/10/22 14:22  

二百二十日は、なんとか無事に過ぎた。巣鴨界隈では9月17日、18日の両日で巣鴨の氏神様である天祖神社の祭典が、にぎやか行われた。若い衆も、いつもは茶髪のアンチャンも半纏、パッチ姿にキリリと鉢巻を締をめると、押しも押されぬイナセで立派な“原日本人”に仕上がるから不思議だ。ヘソ出しルックのオネイチャンもキリッと髪を巻き上げて、サラシで胸元を締めればなかなかイキで、見違えるほど惚れ惚れする。以前ある映画監督が、言っていたが、服装を変えるだけで、なんの演技指導もせずに誰でも立派にこなす役柄があるそうだ。男は“軍人とヤクザ”女は“娼婦と看護婦”なそうだ。人間は、善悪二元論だけでは律しきれない二面の業を持っているということだろう。

それを思うと、今年の夏の「クールズビ」という「ズートルビー」みたいな政治家の締りのないダラシナサは、どうした事だろう。大衆が喜ぶとでも思ってのことなら、大きな誤解というものだ。一般大衆とてもう少し節度というものがある。20代の若者でも,TPOを十分に心得てシャキッと決めて仕事をしている。「心頭滅却すれば火もまた涼しという矜持」は一体どこに行ったのだろうか。これから寒くなると、「ウオウムビズ」と言うことになるらしい。さすれば、閣議は、綿入れのドテラで畳の五段重ねの上にどっかり座った牢名主みたいになるにちがいない。たぶん、テレビ写りは“ゴロツキ”の集まりみたいだろう。早い話、服装のことなどよけいなお世話というものだ。

今、「サンシャイン60」になっている場所に以前「巣鴨プリズン」と言うものがあった。巣鴨に来た当初、池袋に有るのにどうして「巣鴨プリズン」と言うのか不思議に思っていた。だが、鎮守の祭りを見て納得がいった。巣鴨村の中心は天祖神社のある今の大塚になる、巣鴨は、けっこう高台にある。そして、池袋は、その名の通り大塚よりさらに低湿地になる。明治通りに「掘割」の地名がその名残を残している。池袋は、巣鴨村大字池袋と言ったそうだ。

だから、「巣鴨プリズン」で正しいのである。 祭が終わると、直会(なおらい)と言って、神前に御供えした神饌を下ろし皆で食べる。物をたべる時、お神酒と共に神様も同席する。「同じ釜の飯を食った仲」とは、神様も交えて一緒に食べた事を意味する。春の花見や秋の芋煮会には、お神酒と共に神様も大活躍する。業種によっては、約束事の確証のため「決め酒」という慣習もあると聞く。祭と言えば、今月は、選挙という大祭があった。「同じ釜の飯を食った」者同士が骨肉の争をして袂を別った。尊敬する人が[父]と小学生並の事を言った人が、なんとかと言う党の党首らしい。今の子供だって、教師の子はペスタロッチ、政治家の子は小村寿太郎、大工の子は左甚五郎、女の子だつてナイチンゲールとか答える。なんとも、情けない話である。

アメリカでは、子供が小学校に入学すると教師は、4つの事を教えるそうだ。   1 皆で決めた事には、嫌でも従え   2 お父さん、お母さんと先生が違う事を言ったら両親の言う事に従え。  3 お巡りさんが、困っていたら手伝ってやれ。  4 国旗を敬え。いかにもアメリカらしい単純明快,単刀直入で誰にでも理解の出来る「マニフェスト」である。日本を6年半にわたり占領支配したダグラス・マッカーサーが本国に召還され帰国する時、日本の民主主義の成熟度について「アメリカが、もう40代なのに対し日本は、12才の少年である。日本ならば理想を実現する余地は、まだまだある」という言葉を残して帰国した。「日本は12才」と聞いて、日本中腹をたてたが、あれから60年経った今でもたいして変わっていないのではないだろうか。皆で決めた事に従わず。家庭を棚にあげて学校が悪い教師が悪いと言い。お巡りさんに、手を貸さず。国旗を揚げるなと教える。ならば、やはり12才と言う事か。  残念!!!    
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お米は天然 “バイアグラ”

                    2006/10/22 10:05

田圃の稲の刈入れも終わり,これから農家は農閑期に入る。毎年この時期になると、巣鴨の“とげぬき地蔵尊”にも埼玉、神奈川、千葉、茨城などの近県農家だけでなく栃木、長野、静岡、山梨などの遠方の農家の方達もバスを連ねて参詣に来る。「昔は空が見えなくなるくらいトンボが舞っていたが、この頃メッキリ少なくなりました」という話を良く聞く。町場では、ほとんど見かけない、今年は、塩辛トンボ三匹位にしかお目にかかっていない。トンボと書くより「蜻蛉」と書いた方が実感が出るほどいかにも儚げである。稲作農家が、トンボにこだわるのは、トンボが、水田の“守り神”だからだ。幼虫のヤゴも田の水中を守る。古来より、大和の美称として“秋津島”という。秋津とは、知っての通りトンボのことである。豊かな実りを天空から見守る“秋津”には特別な思い入れが有るそうだ。

昭和36年、稲作農家だけでなく日本中を震撼させる出来事が起こる。「米を食べるとバカになる」という小冊子の出現である。書いたのは、慶応大学医学部教授にして、推理作家の林タカシ(高偏に操の旁)ペンネームは林タカシを分解して木木高太郎という御仁である。農家が、こぞって「アイツだけは許せない」という御仁だ。42歳でデビューした遅咲きの大器松本清張、「眠り狂四郎」のシバレンこと柴田錬三郎を世に出したことで当時は、飛ぶ鳥落とす勢いだった。その影響力たるや久米宏、みのもんたの比ではない。その時発刊した60万部の小冊子が、その後の日本を根底から変えてしまった。

後に知ったが、この種の「手口」を「パブリシティー広告」というのだそうだ。巷間伝わるところ、アメリカ穀物メジャーの謀略ということだ。昨今「寒天」がブームらしいが、そんな些細な問題ではない。子供が“バカ”になってはたまらないと、主婦は、ビックリ仰天、即座に米離れした。そして、昭和35年の一人年間120kgをピークにして60kgまで激減してしまった。食べなければ当然余る、古米、古古米、古古古米と際限もなく米が余る。それでは、田圃を潰せと、減反に次ぐ減反。ついに、休耕田だらけになり、食料自給率40%、ちなみに外国の食糧自給率は、米125、仏132、独96、英74だ。

あの時、反論したのは、弥生式の水田遺跡の登呂遺跡を発見した考古学者 樋口清之くらいだ。木木と樋口のテレビ対談を再現しよう。「あなたネエ、馬鹿な事を言うもんじゃありませんよ。二千年以上前からと瑞穂の国と言われ、多くの人口を養う事を可能にした米を悪し様に言ってはいけません」と木木高太郎を諌めた、その時、木木は、失礼と言うより無礼にもプイと席を立って逃げた。誰の目から見ても、樋口の勝ちだ。しかし、そうはいかない。一度、頭に入った刷り込みは、なかなか消えないらしい。主婦達は、子供をバカにしたくない一心でパン食にかえた。「ウチは、朝トースト2枚と、おコーヒー」なんぞと誇らしげに言う。綾小路きみまろ流に言うと、「あれから40年」トンビは、鷹を生まず、瓜のツルにナスビは成らず、ついに親より劣る学力低下のテイタラクである。“米も食べずに”バカになってしまった。

あの説は、一体なんだったのか?農家の人達は、なんで、アノ時、反論に立ち上がらなかったのかと悔いている。米ほど栄養豊かな食品はない。エネルギー源になるだけでなく、蛋白価が非常に高い。プロテイン・スコアで比較すると卵1ヶとオムスビ1個とほぼ同じ、オムスビ2個で牛乳1本というところだ。極端な話、オムスビ12個で1日摂取必要量をまかなえそうだ。米は、昔から1粒万粒と言われる程沢山の実を結ぶ。実際には1粒の実から2000粒の稲穂を付けるそうだ。その豊饒な生命力にあやかるため小麦主体の西欧の結婚式でさえ“ライスシャワー”を儀式に取り入れているほどである。お米の力を借り「生めよ、増えよ、地に満てよ」というところであろう。

さらに、この頃新聞の科学欄では、米の成分の中に“ホルモン様物質”が有り肌をシットリさせる保湿効果の有る事が報じられている。さらに、さらに、お米には“天然のバイアグラ”としての効果が有ると言うことである。今頃になって米離れして“バチ”が当たっている人も居るのではなかろうか

都都逸風に言うなら・「立てておくれよ お米の顔を 米は天下の バイアグラ」
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パーマネント“マル公”で60円

                    2006/10/22 05:45

日本橋を起点にし、北関東から新潟に向かう国道17号線中仙道の拡幅工事が、巣鴨界隈でも行われている。工事に伴い、民家の取り壊しが、あいついでいる。巣鴨のお地蔵さんから数軒先の民家を撤去した時、非常に興味深い物が出てきた。「パーマネント“マル公”で、60円 男性40円」という看板だ。家と家の間に有ったので、ほとんど日に晒されなかったのかペンキの赤、白、黒の色も鮮やかだ。トタンに書いたペンキの文字などは、普通では、赤色が消えて見えなくなる。しかし、オーバーでもなんでもなく、昨日書いた様にきれいなのだ。まさか、昨日今日、書いた分けではあるまい。皆で見物に行ってみた。今時“マル公”にお目にかかるとは、誰も全く思ってもみなかった。記憶のフィルムを逆回転させてみる。看板を見ながら“謎解き”をしてみた。三人寄れば文殊の知恵とは、良く言ったもので年寄りが、三人も居れば、この手の生活に密着した話は、大体かたがつく。“マル公”とは、終戦直後のインフレを防ぎ物価の安定を計るため策定された“公定価格”のことである。全ての物資に公定価格があり、建材から食品さらにサービス価格までマル公と闇値があった。

敗戦後の経済復興は、こうして始まった。占領軍による7年にわたる“オキュパイド・ジャパン”の時代の話である。あの頃、デトロイト銀行の頭取のジョセフ・ドッジと言う男が来た。ドッジ・ラインと言う超デフレ政策を引いた男である。1兆円超デフレ予算、通貨が無いので耐乏生活と物物交換、着物を一枚一枚お金に替える“竹の子生活”という言葉があった。通称アンポンと言う今の経済企画庁の前身の経済安定本部が全権を握っていた。今では、殆ど全ての物資から規制が解かれている。闇米 カツギ屋も昭和47年の自由化を以って死語となり、残るは、銭湯だけとなった。

あの看板は“見物鑑定団”の見立では、たぶんその頃の物だろう、と結論が出た。「それで、年代は?」と絞り込む。パーマ屋さんに聞くと、いま女性8000円ー10000円男性6000-8000円らしい。皆で基準になる価格をさがす。アリマシタ!!!“ニコヨン”という基準。仕事がなくて、失業対策で雇用された人達のことだ。日当が、100円玉2ケと10円玉4ケというところからきている。当時の実感としては、二万円位だ。結論が出たあの看板は、昭和23年の物だ。良く残っていたものである。

“ニコヨン”も今は、全く使われなくなったが、人夫 人足 日雇 労務者 も死語となった。共産党が「自由労働者諸君・・・」と、かえって慇懃無礼な演説をしていた頃である。北海道では、今でも日雇いに出る事を「出面に出る」と言うらしい。出面(デメン)とは“day men ”日雇の事だ。そして、さらに月給取と同じ言い方で“出面取”(デメトリ)という“リッパな職業”になっている。さらに、さらに日給を“出面” (デズラ)で幾らと言うことになる。“出面・デズラ”は、今でもケッコウ建築現場で耳にすることがある。バブルの最盛期には、近所の飯場でイラン人、ブラジル人、中国人が“デズラ5万円”と言っていたのを良く耳にした。言葉として未だ死んではいない。看板一つで話に花が咲く。ついでながら、あの頃私の床屋賃が20円、米兵がアメリカ本国でGIカットにすると1000円と聞いて驚いたものである。今の日本と中国の比率みたいなものである。

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あの“麻布三連隊”

                      2006/10/22 05:05

昭和の時代が終わったのは、昭和64年の1月7日である。つまり、昭和64年は、たったの7日間と言う事になる。そして、激動の昭和の幕開は、大正15年12月25日からであり、これまたたったの7日間である。まさしく、本当の“足掛け64年”と言うことになる。私の姉は、大正15年12月23日生なので、大正の人である。女の事とて2日遅く生まれれば“若々しい昭和”を名乗れるものと悔しがり“見栄”と言えるかどうか分からないが、とにかく“見栄”を張って生年月日の元号を“昭和”と書いていたのをおぼえている。昭和64年1月生の女性も“平成元年”と書きたがるだろうか。この頃世間では、年号を西暦で表示する事が多くなって来ている。製造番号や商品表示など技術的な面での利用では、非常に重宝している。今では珍しくないが、全学連、全共闘の時代には、履歴書を西暦で書き、進歩的文化人を気取った者もいた。

当時、昭和と言う時代が長かったので昭和の次の元号の時代など夢想だにしなかった。平成の時代に入ってからでも、早や18年となり、大正の15年を抜いた。そして、平成の時代区分がだんだんと出来つつある。一つの文化文明を語る時、明治、大正、昭和、平成と言う時代区分は、生活に密着したものであり、一つの世代を語る時、実感と現実味がます。元号とは、まさに、その様なものである。世界中で、もう元号を持つ国は少ない、かつては、どこの国でも元号を持っていた。今、元号を持つのは、イスラム世界と日本だけになった。だんだん、元号の表示が、少なくなっているのを嘆く人もいるが、そんな事は、さして心配はいらない。いずれ、その重要性と文化性に必ず気ずくはずだ。

今の40代の人達は、親をパパ、ママと呼んで育ったと思う、さて自分がいざ親になってみると、パパ、ママの浮薄さに興醒めしたのか、もう都市部では、先祖がえりして“お父さん、お母さんが”主流だ。今時“パパとかママ”がいるのは、もう下北半島の先っぽのあたりぐらいだろう。昔“電力の鬼”の異名を持つ、松永安左衛門翁が、全学連を揶揄して「朝だちや 厠までへの 命かな」といった事があったが、20年、30年の一世代で大抵の事は“シャキッ”と復元している。

さて、今日の本題に入ろう。もう18年前になるが、平成に入った1月の或る日、老婦人のお客様があった、他の客を交え家の事、家族のこと、嫁の悪口などなど話が弾む。前にも書いたが巣鴨と言う町は、買い物半分、話半分の「話の泉」みたいな町だ。彼女は、その時こんな興味深い話をした。「ご主人は?」 「昨年亡くなりました。主人は戦前、麻布の三歩にいたんですよ。」  「あの、ですか?」 三歩を知っている人がいて余程嬉しかったのか 「そうです、あの麻布三連隊です。」「主人は、死ぬまであの日、俺がカゼを引かなければ、絶対あの事件は、起こらなかった」と言っていたそうだ。そばで聞いていた中年女性が「でも軍曹さんなんでしょう」と下士官に何が出来るのか、というニュアンスで言う。老婦人は「あなたネエ、軍で一番偉いのは、誰だと思います? 軍曹なんです」とキッパリ言う。私の年令でも、旧軍内部については、よくわからない。或る程度、理解のたしになるのは「コンバツト」という映画の中で、完全に部下を掌握し信頼を集めるサンダース軍曹とサンダースを頼りにするヘンリー少尉の関係程度である。

後に、かつて習志野の第一空挺団に所属していた若者に聞いた「隊で一番偉いのは誰」「曹長です」と。  彼によると、防大出のエリートでも実務派の曹長の意見を無視しては何も出来ないそうだ。「カゼをひかなければ・・・」が信憑性を帯びる。あの事件とは、その後の日本の道筋をミスリードした二二六事件である。そして、彼女は「安藤大尉と栗原中尉は、しょっちゅう家に遊びに来ました。そして、やたらに主人をオダテ、恥ずかしくなるくらいのお世辞をいつも言うんです」と。言わずと知れた、彼等こそ1400名の反乱軍を決起させた安藤輝三大尉と栗原安秀中尉である。当時の軍隊の中の下士官兵に良識があった事が解る逸話である。二二六事件の終息が、「下士官兵に告ぐ 原隊に復帰せよ」という布告である。70年前の昭和11年の話である。テロリズムに「造反有理」も「愛国無罪」もない。敗戦後60年を向かえた今年、なぜか彼女の話が、心に残るので誰かに伝えたいとおもい書きしるした。    
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巣鴨に春を呼ぶ“ふきのとう”

                     2006/10/21 12:12
春を呼ぶ山菜“ふきのとう”は、白河以北の“えみしの地”では、先住民であるアイヌ語の春を意味する“バッキャ”がなまり、バッケとかバンケとか言われています。バッケ味噌とかバンケ漬とかは“ふきのとう”より古い言葉だと言うことができます。“ふきのとう”は、寒い寒い冬ごもりから目覚めた熊が、体調をととのえる為に一番はじめに口にする食べ物だそうです。

春の野摘は、1600年前に作られた万葉集4516首の第1番目の雄略天皇の御製にも歌われています。昔、習いましたよネ。「こもよ みこもち ふくしもよ・・・・この丘に 菜摘ます子 家のらせ 名のらせ・・・」という春を呼ぶ大らかな歌です。明るい春を、待って野摘みをする習慣が、古代から現代までズーと続いていることが良くわかります。今様に言うと、「きれいなカゴと 小さな竹ベラを持って 丘の上で野草摘みをしている お嬢さん あなたの家はどこ 名はなんて言うの・・・」もっと、くだいて言えば「名前と電話番号を教えて」と言うところである。野にも人にも、山川草木にも春が来る。これほど古くから、春を呼ぶ食べ物として珍重されて来た「ふきのとう」は、年をとればとるほど、懐かしくなるのだろう。

とげぬき地蔵尊前にある当店では、春だけではなく、年間とうしてお年寄りの皆さんに良くお買い上げいただいています。「ふきのとう」から始まった春も、山うど、こごみ、ぜんまい、わらび、山ごぼう、のびる、うるい、しどけ、つくし、よもぎ、山椒、と来て山ぶき、青みず、姫竹の最終段階となり、梅雨明けとともに山々にも夏が来る。日本の春の味「ふきのとう」は、日本古来のハーブであり、あのホロ苦さと香りは、味覚にすぐれた日本人独特のものかもしれない。とにかく、いろいろある山菜の中で圧倒的な人気である。

おもいっきりテレビによると・・ 「ふきのとう」に含まれている、ケンフェノールと言う成分は、セキを止め、ぜんそくを和らげるという効果があるそうである。香り成分のフキノリドは、胃を強くしさらに整腸作用もあるそうだ。苦味成分は、肝機能を強化しダルサを取り去り、新陳代謝を促進し細胞をキレイにし、いきいきと甦らせてくれるそうです。さらに、花粉症にも良いとも報じられています。

誰が付けたか知らないが、山菜を“香の物”とか“薬味”とは、良く名つけたものである。  先日“カッコウ”という山菜を60年ぶりに見た。終戦直後、母に言われ酢味噌あえにするので野摘みをしたことがあったが、なかなかそれ以来お目にかかれなかった。かつては、田舎の道端に子供でも見分けが付く位い沢山あつた。山菜についての話題は年寄りの最も得意とする話題である。「上野毛の五島邸の裏の谷に沢山あるよ」と言って持って来てくれたお年寄りがいた。東京都内でも、まだまだいろいろな山菜があるそうだ。見つからないのは、見つけようという気持ちがなくなったからだろうか。 

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巣鴨にいた“大空のサムライ”坂井三郎

                      2006/10/21 12:01
             
巣鴨の、とげぬき地蔵尊前に住み商売を始めてからもう23年になります。犬を飼っており、犬との朝夕の散歩は、もう毎日の日課みたいなものです。 ある日、毎日の散歩コースのお地蔵さん付近で、坂井三郎という表札を目にした。何か子供の頃に聞いた懐かしい名だなあと思われなんとなく懐かしさを覚えた。だが、あの人は、もうすでにお亡くなりのはず、と勝手に思い込んでいた。

だが、坂井三郎の名から連想してなのか、なぜか加藤建夫少佐の「加藤隼戦闘隊」の歌が、頭に浮かぶ。その後、坂井の表札のある家の前を通る度、どうしても灰田勝彦の澄んだあの歌声が、聞こえて来る気がした。ご存知の「エンジンの音 ゴーゴーと 荒鷲は行く雲の上 胸に描きし日の丸と 翼に描きし若鷲のしるしぞ我等が 戦闘隊」という歌である。坂井の零戦、加藤の隼そして「エンジンの音」と天才飛行士へとおもいが巡る 。それから十八年間、朝晩の散歩で、その家の前は、幾度となく通りすぎ幾度となく御当主と会釈してすれ違った。

もう、五年前になるが、平成十二年十月十五日の産経新聞朝刊を開いた。葬送のコラムを見た。あの坂井三郎がそこに居た。間違いではないだろうか。住所を見た。巣鴨3丁目12番、私の家の五番地先、正しくあの「坂井三郎」だ。 十八年間、近所で一度もその噂すら聞きはしなかった、都会とは、なんとなさけないものか。あの人になにか語ってもらいたかった。今日、産経新聞読者相談室から送ってもらった「葬送」のコラムが、手元に有るので戦後生まれの人で「坂井三郎」をご存知ない方に紹介を兼ねて全文を引用させていただく。   

            (元撃墜王 坂井三郎氏)

世界各国で百万部を超えるベストセラーとなった“大空のサムライ”など著書の数々。二百回以上の空戦で六四機を撃墜した零戦のエース「坂井三郎」の名は戦後一躍、世界に知れ渡った。 スピットファイアやグラマン、「死の要塞」B17などとの息詰まる死闘。敵弾でひん死の重傷を負いながら空っぽ寸前の燃料で生還した話、昼間の星を見て二.五の視力を養ったエピソード・・・・・・。文字通り、命を懸けた最前線での「人間ドラマ」は外国人や戦争を知らない若い読者にも感銘を与えた。   

亡くなったときは、米ニューヨーク・タイムズからも確認の電話があったという。大正五年に佐賀県南部の村に生まれた坂井さんは、小さいころからスピードの魅力に取りつかれ、戦闘機乗りにあこがれた。昭和八年、海軍に入り、霞ヶ浦航空隊操縦練習生などを経て、中国やラバウルの戦線で活躍した。操縦練習生の一期上で、戦後も交友があった岩手県陸前高田市の教材販売業、三上一嬉さん{83}は「当時は物静かなジェントルマンで、実戦では「先見性」に優れていた。戦後、再会したとき、「情熱的な」人に変わっていたので驚いたが、世界に零戦パイロットのことを知らしめた功績は大きかった」と話す。     九月二十二日、在日米軍の夕食会で倒れ、急性心不全のため、八四歳で死去。「お別れ会」の祭壇には、若き日の飛行服姿の坂井中尉の勇姿があった。

                     以上 産経新聞朝刊「葬送」より

      

 「坂井三郎」の名は、我々高齢者にとっては忘れがたい思いでが沢山詰った名前である。終戦後、フジヤマのトビウオの古橋広之進、天才スイマー橋爪四郎が出てくるまでは、子供達の英雄だった。野球での王、長島、金田、松井、イチロウ、野茂などの名選手達とは、全く違う英雄である。坂井の200回出撃は、200勝投手の記録と比較にならない、3打席のうち二本失敗しても打撃王という世界とも違う。200回出撃して、自分自身右目を打ち抜かれながら無事生還しただけでなく、編隊を組んだすべての部下を、1名の戦死者もださずに全員連れ帰るパーフェクトな戦いである。そのことを、敵も味方も賞賛するのである。

撃墜王坂井三郎について、親も教師も子供達に、剣豪宮本武蔵と同じレベルでその逸話を語った。朝起きる、遠目訓練のため遠くの緑を見る、鳥の数を瞬時に的確に数える、野原に寝転び空を見上げジット見つめる、目の角度によって彼には白く輝く無数の星が見えたという。そして、2・5の視力を保った。次に,瞬発力を養うため、トンボ取に挑む、飛んでいるトンボは100発100中。次に、ハエに挑戦、止まっているハエは100発百中、飛んでるハエは、10中1・2ハエの速力をみて前方で掴む。食事の時も、右手の箸の動きを左手に伝え握る。走っている時、電柱と視線の一致点で手を握る。持久力を養うため、ダメだと思った時からどれだけ耐えられるか。彼は2分30秒の記録を持つという。まさに、努力につぐ努力は武芸者、修験者、修行僧を思わせる。勤勉、努力,忍耐の体現者だ。子供達はまねた。

だが、どれをやってもなかなか出来ない、昼間の星は、山椒の実を食べれば見えるというので食べたが見えない。努力目標から畏敬の念へさらに尊敬へ。我等が英雄の所以である。海兵団出身のたたき上げの坂井は陸大出の加藤より圧倒的に人気があった。加藤の18機を圧倒する64機である。加藤の歌は有るが、坂井にはない。彼の著書「大空のサムライ」は、日本よりかつての敵国アメリカでベストセラーになり有名だと聞く。トム・クルーズ演ずるところの映画のトップガンみたいなものである。

こんな男が、かつて日本にいたのである。ぜひ、お話をお聞きしたかった。大事な語り部の一人がこの世を去った。日本語として最高の賛辞「天晴れ」こそ「大空のサムライ」にふさわしい。  巣鴨では、今でも、こんな会話がよく交わされている。「おたくの御主人は、どちらの戦地に行っていらしたんですか」「うちの主人は、ガタルカナルから運よくブーゲンビルに撤退できたんですよ」「奇遇ですね、うちの主人はその撤退作戦の時、零戦で輸送船団の護衛で飛んでいたそうです」「その節は、本当にお世話になりました.命の恩人です」と、浦島太郎の様な話が、今でも巣鴨の路地裏では交わされているのである


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巣鴨の105歳の“ご婦人”

                    2006/10/21 11:00
先月、105才のご婦人が、86才の娘さんに買い物を頼まれたといって板橋からこられた。今のところ、「板橋で一番,東京で二番かしら」と言う。凛とした、立ち居振舞い、シャキッとした背筋、張りのある声から見て老人とか、お年寄りと言った形容が、失礼にあたると思い「ご婦人」と書いた。目も耳もシッカリしている。なんといっても、その記憶力たるや並大抵のことではない。 同行のヘルパーさんが「本当に105才なんですよ。お幸せな方です」と言う言葉から、一家団欒の家庭なんだろうなと思われる。そばに居た、お年寄り達は、「アヤカリタイ、アヤカリタイ」と言って体をなでる。 まさに、巣鴨の洗い観音みたいなものである。明治33年3月の身分証明を見せてもらい、遠い遠い、昔むかしの明治が、目の前に見るのは、まことに不思議な感じである。

丁度、今年は、日露戦争から100年目の年である。先月の五月27日は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破り民族の自立を守りきった日でもある。これも、何かの縁と言うものかも知れない。「戦勝記念の提灯行列は、本当にうれしかった」と昨日のことの様に話し、後楽園のあたりには、砲兵工廠があり、滝野川の旧東京外語大のあたりには、海戦を決定ずけた下瀬 雅允の下瀬火薬工場があった事さらに、染井桜で有名な染井の墓地に下瀬博士は眠っていることなど淀み無く話された。私達にとって、ほとんど司馬遼太郎の「坂の上の雲」の世界である。

本屋さんによると、この頃若い女性や女子学生に「坂の上の雲」が良く売れるそうである。絹織物とお茶しか外貨獲得の手段を持たない貧しい農業国家が、いかにして近代国家に成っていくかと言う物語は、産経新聞出身の司馬遼太郎の筆になるものである。 昭和40年代産経新聞の連載は、毎日楽しみにしたものだ。タイ大使を勤められた、論客岡崎久彦氏も自著で当時の外務省若手官僚が「旅順は、どうなったか」「バルチック艦隊いずこ」という話でもちきりであったと回想している。 西洋世界で聖書の一部とさえ言われるガリア戦記の如く、この物語は、近代日本を作り上げた「神々の物語」でもある。 貧乏国日本が、なけなしの金をはたいて、同盟国イギリスから買った虎の子、旗艦三笠を回航して来るくだりでは、皇太子妃雅子様の曾祖父にあたる奥州盛岡出身で後に海軍大将になる山屋他人も登場する。まさに、歴史は,れんめんと続いているのである。皇太子は関東の子であり、愛子様は奥州の子と思うとなんとも身近に感じられる。

世界中の新聞でも珍しい事だが、産経新聞は、数年前再度「坂の上の雲」を連載した。1回目の時ぜひ、下高原健二の挿絵が、欲しかったが切り抜きそびれた。2回目の時は、シッカリと700枚に及ぶ挿絵を切り抜いた。なぜ挿絵の切り抜きを、したかと言えば、司馬遼太郎が、常に「坂の上の雲」だけは、映像化させないと、遺言の様に言っていたからである。 映像化は、単なる戦争映画になるからである。 私も同感である。 だからこそ、1296枚の白黒の挿絵を使い子供達向けの紙芝居でも作ろうかと思っていた。だが、よりにもよって、NHKがテレビ化するそうだ。「北条時宗」の時も「平和のためには、属国になってもいいじゃない」と女性に言わせる局である。 今度もまたロシアの属国になったのほうが、日本は、幸せだとでも言わせるつもりであろうか。心配である。 

地方には、まだ800年の歳月をすぎても、子供を諭す時「モーがくる、と言う。土地によっては、「もっくり{蒙古}」「こっくり{高句麗}」が来る、ともいうそうだ。 民族の記憶というものは、いまだに地方に吹き溜まっている。 ついでながら、今,下高原健二が描いた挿絵の一枚を見ているところです。アリババと40人の盗賊の様なペルシャの服を着たトルコの軍人が乗っている軍艦の絵です。トルコ海軍が,日本を表敬訪問した帰り和歌山県串本沖で難破します、その時住民は、暴風雨のなか60メートルの断崖を、一人ひとり担ぎ上げ救出し、死者も含めて軍艦を仕立て丁重に送り届けます。 それから100年、イラク戦争で脱出できなかった邦人をトルコ機が、危険も顧みず救出にあたってくれた。自衛隊機も民間機も救出に向かえない時であった。 トルコ政府は、その時「100年前のお礼です」といった。歴史の重みを感じた事件でした。 私の手元に1296枚の完全にそろった挿絵があります。もし、ご希望があれば、お貸しします。     

東京都知事の石原慎太郎氏も、「誰か、近現代史を、子供達に語って聞かせる者は、いないだろうか」とかつて話していた。リタイアした知恵者の諸君、貴方達の出番です。まだまだ、やることが沢山有ります。 先程書いた岡崎久彦氏は、坂本竜馬に愛された海援隊の事務局長で、後に明治の誇り高き外交路線を築いた陸奥宗光のお孫さんでもあるという。全国的に、「語り部NPO」を造ってみては、いかがだろうか。名コラムニストだった、山本夏彦の言を借りれば「人間は、2度死ぬ」のだそうだ。死んでも、人の記憶の中に生きており、人の記憶から消え去った時が、本当の死だと。里とて国とて、同じである。
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下町の“語り部達”

                    2006/10/21 10:51

「お年寄りの町」とか「お年寄りの原宿」とかの異名を持つ町“巣鴨”。なぜか、お年寄りばかり集まる町“巣鴨”。巣鴨にお住まいの林家こん平さんが、落語で年寄りが「佃煮にするくらいいる」と言っていた程年寄りだらけの町である。  戦時中には国を支え、戦後は世界史上の奇跡と言われた高度成長を支えた人たちが、今や次から次へと高齢化している。有識者といわれる人々はは、高齢化を憂いてばかりいるが、憂いているばかりが能ではあるまい。 青春・朱夏・白秋と時代を乗り越え“玄冬”の世代に入った者を荷厄介にする事は許されることではない。玄冬は、人生の黄昏では決してない。“玄人”と言う人生の達人であり、その人たちの言葉は、含蓄と警句を含んでいる。私は、職業柄お年寄りと話す機会が多く、特にその感を強くしている。

私の店の店頭に、梅鉢が二鉢置いてある。お年寄りとは有難いもので、二月になると、一日に何人ともなく「二芽残して枝きりした方がいい」と言う。さらに「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言う。“お節介”という事では無く“玄冬”の人は、何ものかを、人に教え伝えたいのだ。“隣り百姓”という互いに教え合って脱落を防ぐ日本人の知恵と醇風美俗が、未だに残っている町である。控えめに語る彼等は、まさしく下町の“稗田阿礼”である。そこで、このブログの表題を、「語り部倶楽部」としました。毎週水曜日にお伝え出来ればと思っております。

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